黄昏のノコリ

​​定位置でくつろぐノコリ​​
 上部ヒーターを点けるようになり、11歳のノコリは調子が良いようだ。今日は、外掛け水浴び器に入り水浴びをしていた。人なら94歳見当か・・・、まったく、大したものだ。
 白内障で視力はかなり限定的なようだが、カゴの中での生活に不便は無さそうだ。もはや長くはあるまい、といたって冷静に判断して、大往生後にどのように対応しようか考えている飼い主の目論見を、このまま裏切り続けていただきたいものである。
 ところで、思想の左右が人それぞれで、デマゴーゴス(扇動政治家)によるレッテル貼りの種になりやすいが、それ以上に宗教はレッテル貼りの種になりやすく、宗教対立による戦争は世界史上に数多の例を残している。
 隣家の権兵衛が何を信心しようと関係ないし、普通、害にもならない。従って、扇動する者が現れない限り、宗教で隣人とケンカするようなことは、あり得ない。
 もちろん、その昔、私が「四面そ~か」と嘆いたように、下宿先の周りがみんなソレを信心してご本尊に「ナンミョーナンミョー」とやられてしまうと、かなり迷惑だが、それとて実害は軽微と言えよう(都会に出てきて下宿している予備校生や大学生は「出会い」を求めて宗教的な集会に行く人も多かったのである)。また、中学校時代の同級生である1年3組タマザワキクコちゃん(小学校1年生の時から存在を知っていた人物)が、私が大学生の頃に電話でやかましく勧誘するばかりか、私の否定的な発言に対して「地獄に行くことになる云々」と口走ったのに対し、「君らのいるところが、俺にとっての地獄なのだよ」と言い捨てたのは、まさに若気の至りであったが、さして悪印象はない。何しろ、その宗教の開祖である日蓮さんの書状を、とある夏の神奈川県立図書館別館で読んでいて(『鎌倉遺文』に収録されているもの)、この人は純粋に良い人だと認識を改めているので、その教えに則って、実に真摯で思いつめた終末思想を継承しても、第三者として感心させられるだけである(もちろん鎌倉時代と現代の違いも終末と週末の区別をつけない者を説得するのは無駄だ)。
 はて、何の話を・・・。
 左様、人みな宗教や死生観は違って当然で、自分の文鳥の死に対する受け止め方も様々なので、自分の感覚を他人が共有してくれると信じこんでいると、結構ショックを受けることも有りがちだという話を書きたかったのである。
 「あなたの気持ちはよくわかります。私も同じです」といったなぐさめの言葉は、礼儀に過ぎない。もちろんかなりの部分で気持ちは察することが出来るし、同じような体験をしていれば共感するところも多いが、人は誰もが主観の中で生きているので、何であれ受け取り方は違って当然で、「他人に自分の気持ちなどわかるものか!」とするのも、また真実と言えよう。
 ノコリの長寿はどこまで続くのか、それが尽きた場合はどのようにすべきか、その他もろもろ、いろいろ考えておくのも、その時の準備としては必要であり、その際は、予定を速やかに実行するのが、やはり私の行動としてはふさわしい。・・・とりあえず、後妻のココウが問題だな。やはり、速やかにアリィと同居させよう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました