昨夜は、最初の問い合わせメールを省いたが、不特定多数の「お勉強」の参考になるかと思い、考えを改め、末尾に全文を載せておく↓。
斜め読みしただけで「うわぁ」と思った私の気持ちはご想像におまかせする。しかし、私は残念なことにアスペルガー症候群ではないので(他人の気持ちを忖度せずに気ままに行動できるなど、うらやましい限りである)、もちろん当事者の気持ちはわかった。苦労していつくしんできた生き物が亡くなった時の切なさも理解できるし、そういった際に、他人に話を聞いてもらい他人の慰めを求めるタイプも少なからずいることも、十分すぎるほど理解しているつもりなのである。
しかし、私はそういった点では正直なので、これがもし文鳥の看護の話だとしても、心にもないのに同情心全開で慰めるようなことはしない。「かわいそうに」とはおそらく人並みに同情してはいるのだが、結局、自分の気持ちの問題なので、自分で解決していく以外にない、と自他ともに経験上、結論付けてしまっているからである。ところが今回のケースは、残念なことに文鳥の経験ではなく、謎の野鳥の話なので、立場上も、警戒しなければならなくなってしまう。
後の説明によれば、巣から落ちたツバメのヒナを養育したところ、手乗り化したようだ。それが先天的なものか、巣から落下した時の障碍かは不明だが、身体的な問題があったのも事実かもしれない(奇形で野生に戻せないとする口実がなければ、飼養が認められないことが多いようなので、そのような現実を知っている私は忖度せずにはいられない)。
私個人は、スズメやツバメのような、ありふれた野鳥のヒナを飼育する人がいても、それが流行らない限りは、目くじらを立てることはないと思っている(希少動物の保護が目的なので、目的外で不必要なことに行政が介入する方がおかしい。と言うより、たんに担当者が暇なだけだと思っている)。しかし、野鳥の保護とは、野生に帰すのが前提で、飼育を続けるのは飼い殺しでしかない、といった批判も理解できる。ナチュラリストなら、奇形があれば淘汰されるのが自然であり、人間が介入するのは、その人のエゴでしかないと見なして当然である(飛んでいる蜂を殺虫剤を使って仕留めた小学生の頃の私は、まさに虫の息になっている蜂に同情心を覚え、それを助けようとした。笑止だが、助けようと思うその気持ちだけは有るべきだろう。そして、冷静なナチュラリストからその自分で殺した蜂と落ちたツバメの子と何が違うのか、と指摘されても、甘受する覚悟は必要だろう。かくすればかくなることと知りながら止むにやまれぬ行為、に過ぎないが、それを全否定すれば人は人でいられないだろう)。
もちろん、公衆衛生の知識が多少は無ければならない獣医師は、野生動物を飼養すれば、自分のもとにやって来る患者のペット動物に、野鳥保護と言う職務外の行為が、お金を取って治療しているお客様に何らかの病原菌を感染させるリスクを考えねばならない立場であることも理解している。したがって、無知な一般人が動物病院に野生動物を連れ込んだ際に、ひどく迷惑して塩を撒くように追い払うような事態があっても(実際にあったと側聞する)、やむを得ず、もし奇形なら安楽死を強く勧めた方が、立場上は、よほど親切かつ適切だと思っている。
つまり、いかに個を愛し慈しむ気持ちは立派でも、知識があればあるほど、野生動物の飼養は褒められないのである(習性にあった衣食住を用意するのは困難で、例えば昆虫食の小鳥でも、市販のミルワームだけで健康が保てるかは大いに疑問)。それでも、前述のように、止むに止まれず目の前の命を助けたいのは人情で、希少種でない限りは見逃すべきだ、が個人的な信条なのだが、問い合わせメールには鳥種の説明がないので、こちらは何を「終生飼養」するのかわからず、その見方によっては飼い殺しでしかない行為を、所轄によって法律の解釈も運用も異なり、担当者の知性も疑わしいことも有り得る保健当局が認めたものなのかもわからない(バレるとまずいから鳥の種類を書かないのではないかと推測)。情報不足で、ひどく困るのである。
従って、いかに頑張ったと説明されても同情は示せず、立場上、見なかった、聞かなかった、とする他になくなり、返信は事務的になる。もし「よくがんばりました。えらかったですね」と言えば、謎の野生動物の飼育を、動物取扱業者としての私が推奨していることにもなりかねないのである。
さらに、純然たる文鳥愛好者なら、死んだ他の生き物の代わりに、文鳥のヒナを飼うことに違和感を持つだろうことも、これまた理解できる。しかし、飼ってみれば、文鳥には文鳥の良さがあり、比べたり代替できるものではないことくらいは、おそらく気づいてくれるはずなので、その点は、初心者の戯言と、我慢すべきだと思う。
以上、お勉強が足りているのかどうかは知らないが、このような複雑な内容を、会って話して引き出せるものではあるまい。誤解している人も多いものだが、会う>話す>読む、実際に会って話さなければ、その人の人となりなどわからないが、情報を自分で解釈する場合、会う必要などないし、会って得られる知識は過小なのが事実である。得られる情報量は、読む>話す>会う、なのである。
なお、大昔は近所に存在してくれた小鳥屋さんのおじいちゃんなりおばちゃんと世間話をするのは楽しいものだったが、それで得られる飼育上の知識など、この際はっきり言えば、塵芥(ちりあくた、ゴミ)に過ぎない。おじいちゃんは、別に自分の文鳥のためにありとあらゆる「お勉強」をする理由はないので、自分の鳥屋としての経験上の知識しかなくて当然なのである。もちろん例外はあるだろうが、残念ながら、消えゆく小鳥屋さん巡りを半ば趣味にした個人的な経験上、例外に接したことがなかったことを、付言しておく。
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