「おねだり」「パワハラ」など負のレッテルを貼られて兵庫県知事を失職した斎藤氏が、選挙により復職を果たし、意外な展開に驚かれている人も多いかと思う。
しかし、ローカルな問題を、全国区で糾弾しようとするのは間違いで、地元に不都合が多ければ、任期切れで再選できなくなる民主主義が機能している以上、県外の無関係な人にとってはどうでも良い話だと思っていた。それでも追求したければ、いかに告発者が亡くなっていても、その行動を完全に正しいものと見なして、知事側を一方的な悪者に仕立て上げるのは不当なのである。
ただし、いかに県庁などという閉鎖環境で出世する地方公務員にありがちな、常識から逸脱した独りよがりの末に自死を選んでしまった、と見なしたにせよ、部下である人の訴えを第三者に向かって全否定して見せたり、個人にお悔やみを言うことすらしなかった斎藤氏の態度は、はなはだ幼稚であり、『不徳の至り』そのものなので、職を辞して当然であり、それを再任させた県民の「究極の選択」は、残念と言わざるを得ない。
その幼稚に見えるように自分で行動してしまった斎藤氏が、なぜ再選を果たしたのであろうか。それは対抗馬にしかるべき人がいなかったのと、地元には地元の事情、例えば知事より県職員の方がよほど信用できないと思われている、などがあったはずだが、「斎藤さんは悪くない。マスコミにレッテルを貼られた被害者だ!」といった、一種の義憤にかられた若者たち(頭の中身が若い人たち)が、SNSなどで声を掛け合い結集して、斎藤氏の選挙活動を盛り上げた結果とも見なされている。
どこからともなく流れにまかせて群れ集まって、プツプツ文句を言うさまは、まさにあぶく泡沫、うたかたのごとしであり、若者の一部文化を「族」と称する昭和の故事に倣えば、彼ら既製メディアに否定的、むしろ嫌悪感を持ち、正義感を持って群れ集まりお祭り騒ぎをしたい平和な若者たちは「うたかた族」と呼ぶべきだろう。
このように書くと非難しているように聞こえるだろう。もちろん、年寄りなので否定的に見ているが、現体制を快しとせず反発するのも、見知らぬ他人と些細な共通項を求めて集い騒いで「連帯」感じたがり、それを年寄りに何とか族呼ばわりされるのも、皆、昔からであり、現在の令和日本の若者にだけ当てはまることではないとも思っている。そして、一時のうたかたとして消えていくのも、いつもと一緒だ。そもそも、ああいうのが好きな「族」な子は、所詮、一部である。
認識すべきは、彼らはZ世代などという年齢幅の狭い集団ではなくなっている点であろうか。年齢層よりネット環境への適応性において共通項を見出すべき社会集団で、今現在はスマホのSNSに情報を依存している。この人たちは判断能力も正義感もあり、マスメディアなど体制を支配してきた集団の欺瞞に敏感だが、木を見て森を見ず、現在を追うあまり結果の想定がずさんな傾向があるかと思う。一人で静かに全体を見て考えて行動など出来ず、若者特有の鋭敏さと世間知らずに身をゆだね、同じような仲間たちと集団になって世界を変えようなどと考える。
アメリカ大統領選でトランプさんを支持した人たちや、東京都知事選で石丸さんを支援した人たち、そして今回斎藤さんを支持した人たち、みな似通った「うたかた族」で、その主張、体制派への懐疑については大いに賛同できるのだが、やはり軽薄に過ぎるとしか思えない。既成マスコミが欺瞞に満ちているからと言って、SNSの情報が正しいわけではあるまい。むしろ多くの欺瞞を含んでおり、我田引水、確証バイアス、自分が決めつけたことの解のみ求めることにもなりやすいだろう。
敵の敵でも敵は敵である。マスコミ情報を疑う見識があるなら、自分が依存するSNSも疑うべきだ。
敵の敵でも敵は敵である。マスコミ情報を疑う見識があるなら、自分が依存するSNSも疑うべきだ。
斎藤さんも茨の道だが、とりあえず、亡くなられた元部下に、お線香くらい手向けられたらいかがかと思う。
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