ボクとコビィ【兄妹】
昨夜、大伴家持のうらうら~を元号の話にこじつけようとしているうちに眠くなり、この話題はやめにしようと思っていたら、今朝の産経新聞の一面記事に、年号の漢字は「国書から取るのが正しい」と河野太郎外務大臣が意見を述べたとあり(産経記事)、批判したくなった。
念のため言っておくが、令和を否定する気はさらさらない。もちろん、他の候補なら広至の方が好みだが(皇太子殿下は浩ヒロの宮さんだから広ヒロの方が良さそうなものだし、令レイはむしろ弟の宮で皇嗣になられる礼宮さんの方が礼と令はレイが共通して良さそうに思える。一世一元なのだから天皇陛下の呼び名などにちなんでも良さそうなものではないか?そういった庶民的な考え方をした「有識者」がおられたかな?なお、贅言するなら、大抵の人は自分の専門についてのみ有識者で、八百屋さんは野菜に詳しく、魚屋さんは魚に詳しいに決まっているが、畑違いの話では門外漢の不識人だ)、令和で何の不都合もない。
ただ、今回の選定にあたっては、「国書」から漢字を選定したかったので、『万葉集』を典拠としたものに決めたとの気配が濃厚なので、それが甚だ不見識な行為であることは指摘しなければならない。
そもそも伝統的なものを大切にしたいのであれば、漢籍から採る伝統をないがしろにするのはおかしい。すべからく新方式を導入する態度は、有職故実の前例踏襲主義を否定するに他ならず、伝統を保護する観点に立つなら、旧例を破壊するはなはだ危険な行動と言える(断っておくが、個人的には邪魔な旧例は廃するのが当たり前との考え方だ)。
第一、元号は古代中国を真似たものでしかないので、元々の初めから大和言葉で表現されうるものではない。つまり、漢字で表現するしかないので、当然、漢字文化の膨大な典籍から佳字を抜き出すのが合理的なのである。もちろん、今の政治家や「有識者」に漢籍の素養を求めるのは無理だが(断っておくが、当然、私にも漢籍の素養などない)、万葉集の編纂に多大に寄与したのがうかがわれる、大伴旅人や家持のみならず、古代日本の貴族たちの漢文の素養は十分以上なもので(バイリンガルがたくさんいる。河野太郎大臣閣下が英語に精通するかの如くである)、そのような学識があればこそ、万葉仮名のようなものを編み出して日本語を表現する道を開くことにもなる。所詮、国書、日本の古典籍にしても、漢字文化に依拠して生み出されたものであり、漢籍と対概念として存在しうるものではないのである。
古代中国の制度である元号を導入し、その文字は漢籍を典拠にする。それは、古代中国の文化を多大に受けた我が日本国の古代を象徴しており、さらにそれが伝統として繰り返されてきた、それが事実であって良い悪いの問題ではない。それをそのまま続けるか否かは議論があるものの、続けるのであれば、伝統として有職故実を墨守し、前例踏襲を重ねるのが無難であり、国書と漢籍を二項対立するかのような勘違いをして、軽々白々に前例を覆すべきではあるまい。
とは言え、この機会に万葉集に興味をもつ人がでてくるのは、悪いことではないかもしれぬ。河野大臣も、この際、特攻隊の英霊たちを見習い、多忙なご公務の合間に『万葉秀歌』などお読みになられることだろう(とか言ってる当人は読んでなかったりして・・・。和歌は不調法で・・・)。
保守や国粋主義の人たちも、教育勅語など明治時代の硬い漢文の世界観から離れ、大和言葉の世界、江戸時代の国学による和の精神の再興に興味を持つきっかけとなるかもしれない。和魂、和をもって貴しとなし、おおらかにギスギスしないで肩こらないで・・・。
せっかくなので、契沖、荷田春麿、賀茂真淵、本居宣長、漢学、特に朱子学に対抗して、万葉集などから大和言葉、日本人が本来的に持っていた文化を国学として追求した人たちの存在価値を、再認識したいところだ(個人的には勉強したかったのだが、その暇に恵まれず・・・)。
とりあえずこの辺にしておき、ボク&コビィ。ヒナ換羽が始まって神経質になっている感じ。特にコビィは、突如、「手嫌い!顔嫌い!!」となるので、飼い主は困ってしまう。
逃げ回りだすと危ないので、両翼3枚ずつ抜いて飛翔能力を低下させることにした。落ち着いてもらいたい。
コメント