闘病とは養生に他ならず


​翼に有色なし​

 不運にも病気になってしまった際に、「病と闘います!」とか「病に負けません!」とか「病に打ち克ちます!」などと、本人が気を張るのは無理もないし、ある程度は必要な心掛けには相違ないのだが、大方は間違いだろう。そのようにおっしゃいますが、では、病で亡くなった人は、その病に負けたの?努力が足りなかったの??と混ぜっ返されたら、返答に窮するではないか?​​
 病気になって必要なのは養生することで、早期に治るか、ゆっくり治るか、あるいは治らないか、それはすべて運不運に左右されてしまうことが多い。一所懸命に治療の努力をしたところで、治らないこともある。しかし、治療を受けずに不摂生を続ければ、治るものも治るまい。つまり、治療を受け、無理をせず体を休めて治療の効果を得やすくなるよう養生を心がけ、後は天命を待つ他なく、闘病とはすなわち養生するに他ならず、簡単に言えば、リラックスしてのんびり体を休めることだろう。
 若い人ほど気づきにくいかもしれないが、努力すれば必ず実る、そのような人間的で単細胞な成果主義が、実にやすやすと覆されることなど、世の中にはありふれているものである。例えば病気の際に、努力すれば半年で治るなどと成果主義を信じてあせってしまえば、いろいろ頑張っても治療の効果がないことに絶望し、不眠などを起こして、かえって養生の妨げとなってしまうことにもなる。
 スポーツ選手ともなれば、目標を定めてそれに向けモチベーションを高め、トレーニングに励むことに慣れているので、病となっても、その克服に向けて、目標を決めそれに向けて頑張りたくもなるだろう。しかし、養生の本質は頑張らないことだ、と、私は思うのである(リハビリは別問題)。「人智を尽くして天命を待つ」、スポーツなら、トレーニングなど勝つ努力を尽くして、本番での天命を待つ。病気なら、養生を心掛け天命を待たねばならない。いずれも、努力に見合った結果が得られるとは限らず、『負ける』こともあるだろうが、目的のために何かしたことも、目的のために何もしないことも、人生において何らかの糧になるはずで、無駄にはならないと信じるべきであり、無駄にしない心がけの出来る人こそ、人として尊敬に値する。
 ともあれ、病を得てしまったら、周囲の雑音など気にせず、ひたすらに、のんびり養生していただきたいものである。
 一方で、文鳥の闘病も、文鳥の主観としては闘病ではないな。病と闘ってなどいない。なぜなら、病など理解しないからである。彼らは、体調不良でも生きようと努力するのみで、まさに懸命に頑張り続ける。それは、やはり生きものとして尊敬に値する姿だと、毎度、感じ入ってしまう。
 しかし、しばらくは、ヒナの元気な様子だけを見ていたいものだ。

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