我が家の庭木(昨日の五色八重散椿)
もちろん「ネトウヨ」もいない。文鳥はインターネットを利用できないし、翼は有っても思想上の「右翼」も「左翼」もない。飼い主がネットをしている環境に存在する文鳥に、キーボードこだわり派とかバッテリー上くつろぎ派がいるくらいなものである。
もしかしたら、インコな人たちなどが集うSNSなどで、私を「文鳥飼育の第一人者」と称えて頂いているのかもしれないが、残念ながら、そんな者いない。「いやいや私はそのような者では・・・」「またまた、ご謙遜を」、などと言う社交辞令ではなく、残念なことに、「文鳥飼育の第一人者」など古今東西どこにも存在しないのである。もし私が、それ以前の「文鳥飼育の第一人者」から教えを受けることができて、それをさらに発展させたと自覚するなら、「俺様こそ文鳥飼育の第一人者だ。プリンケプス・オブ・ブンチョと呼ぶがよい」と宣言したかもしれないが、文鳥飼育に関して師匠に教えを受けたことも無ければ、自分の現在の飼育を他人に完全に真似させようとも思わないので、それは有り得ない、のである。
インコにせよ文鳥にせよ、家庭での飼育(手乗りなら共同生活と表現した方が良いかもしれない)は、基本的なことだけなら他人の真似で済むだろう。しかし、小鳥自身や飼い主のパーソナリティはそれぞれに異なる上に、各家のライフスタイルはさまざまなので、飼育なり生活の仕方はそれぞれで違ったものにならねばならない。したがって、いかに「第一人者」を僭称する者がいても、その飼育方法がその他の人たちに適しているとは限らない(「第一人者」を僭称したら、「僭主だ!」と非難され「陶片追放するのじゃ!」となってしまうのが、ギリシア直接民主制なのだ!これ、テストに出るぞ!!)。
私にしても、不特定多数の人の経験などを参考にしつつ自分の飼育方法を模索しているに過ぎず、学び学ばれる関係の一人に過ぎない。逆に言えば、飼い主たるものは、誰かの御託宣だけを頼りに出来ない、と自覚する他ないのだと思っている。
ところで、「ネトウヨ」(本来はインターネットにおいて右翼的で乱暴な書き込みをする人のこと)自体、このブログが始まってずっと後に発生した言葉だが、最近はその対義語として「パヨク」(本来は左翼的な行動が常軌を逸している人のこと)という言葉が発生していて、お互いにレッテル貼りを繰り返している。結果、「ネトウヨ」と相手にレッテルを貼れば、自分が「パヨク」だと自己紹介するに等しく、「パヨク」と相手をののしれば、「ネトウヨ」と自分の額に烙印を押すことになる、といった様相だ。「人を呪わば穴二つ」、レッテルを貼れば自分にもレッテルを貼ることになってしまうわけだ。賢明な若い人は、馬鹿な大人の真似をしないようにしていただきたい。
さて、自分のブログに政治向きの話を書こうと、庭木に何を植え何を移植しようと勝手なのと同様に、他人の指示など受ける筋合いにないので、安倍昭恵夫人の件にさらに触れておく。断っておくが、私は第一次安倍政権が難癖でしかないような逆風にさらされ退陣に追い込まれた際に、失政が無いのに気の毒だといった内容を、このブログに書いているはずだが、「家庭内野党」などと自慢気にペチャペチャしゃべくっていた昭恵さんを見るのは元々不愉快であったし、ソクラテスしかりリンカーンしかり、困った女房が男を強くするのだろうと思えど、あまりに軽率な振る舞いに対しては、しばらく座敷牢に放り込むのが適切だ、くらいには思っている。
しかし、今日の新聞にある週刊誌の広告を見れば、これは擁護しなければ、民主主義を否定することになると思えてならない。『新潮』は特集「散り際の「安倍昭恵」」と銘打ち「彼氏と別れてお見合い「暴走ファーストレディ」誕生秘話」「「ジュリアナ」が原点! 型破り「アッキー」の酔狂伝説」、との文字を躍らせて「どや顔」ししているではないか!これを見て、おかしいと思わない人の人権意識を私は疑わざるを得ない。
もちろん、金輪際、中身を読むことはないが、無関係な過去を掘り返して個人の人格攻撃をしているに相違あるまい(もっとも針小棒大で、大した非行内容ではないと予想できる)。残念なことに、無関係な過去を持ち出しその人を貶める、そのような品性下劣な行為を恬として恥じないような大人も多い証左と言えよう。まして政治屋など、前言撤回は当たり前、好き勝手に党から党へ渡り歩き、詐欺、それも公金詐欺で拘留中の人間の御用聞きをしてその発言を垂れ流し、それをおかしいと思わないような感性の連中が、現に複数存在したわけだし、そのような輩を喋らせるメディアがあるのが事実だ。おそらく与野党問わずそういった輩がいくらもいるのが、ユートピアならざる現実である。
さて、自分のブログに政治向きの話を書こうと、庭木に何を植え何を移植しようと勝手なのと同様に、他人の指示など受ける筋合いにないので、安倍昭恵夫人の件にさらに触れておく。断っておくが、私は第一次安倍政権が難癖でしかないような逆風にさらされ退陣に追い込まれた際に、失政が無いのに気の毒だといった内容を、このブログに書いているはずだが、「家庭内野党」などと自慢気にペチャペチャしゃべくっていた昭恵さんを見るのは元々不愉快であったし、ソクラテスしかりリンカーンしかり、困った女房が男を強くするのだろうと思えど、あまりに軽率な振る舞いに対しては、しばらく座敷牢に放り込むのが適切だ、くらいには思っている。
しかし、今日の新聞にある週刊誌の広告を見れば、これは擁護しなければ、民主主義を否定することになると思えてならない。『新潮』は特集「散り際の「安倍昭恵」」と銘打ち「彼氏と別れてお見合い「暴走ファーストレディ」誕生秘話」「「ジュリアナ」が原点! 型破り「アッキー」の酔狂伝説」、との文字を躍らせて「どや顔」ししているではないか!これを見て、おかしいと思わない人の人権意識を私は疑わざるを得ない。
もちろん、金輪際、中身を読むことはないが、無関係な過去を掘り返して個人の人格攻撃をしているに相違あるまい(もっとも針小棒大で、大した非行内容ではないと予想できる)。残念なことに、無関係な過去を持ち出しその人を貶める、そのような品性下劣な行為を恬として恥じないような大人も多い証左と言えよう。まして政治屋など、前言撤回は当たり前、好き勝手に党から党へ渡り歩き、詐欺、それも公金詐欺で拘留中の人間の御用聞きをしてその発言を垂れ流し、それをおかしいと思わないような感性の連中が、現に複数存在したわけだし、そのような輩を喋らせるメディアがあるのが事実だ。おそらく与野党問わずそういった輩がいくらもいるのが、ユートピアならざる現実である。
我々の代表者は賢人とは限らない。昭恵さんが軽薄でも、それを問いつめる方はさらに破廉恥なのかもしれぬ。むしろその事例など枚挙のいとまもない。思想信条の違いを超え、個人の人権を尊重するのが民主主義国家日本の国是であり、改憲を進める政権を貶めたいなどの如何なる理由があれ、それを無視するのを許されない。それを許せば、ご都合主義で国是をゆがめることになり、大きな憲政上の汚点になる。
・・・、ま、昭恵さんが自分の居酒屋にマスコミの代表者数名を呼んで、よよと泣いて見せれば良いのだ、とは思う。しかし、それをするしないは個人の自由だ。総理大臣たる夫を含め、本人以外が指示出来るものではない。それが民主主義だ。
・・・、ま、昭恵さんが自分の居酒屋にマスコミの代表者数名を呼んで、よよと泣いて見せれば良いのだ、とは思う。しかし、それをするしないは個人の自由だ。総理大臣たる夫を含め、本人以外が指示出来るものではない。それが民主主義だ。
コメント