忘れようにも忘れられない


​​てんでばらばら、でもなく、何やら悪事をしようとする若輩ども​​

 忘れようにも忘れられないことなら、忘れることを恐れることは無い。震災の記憶などと言うが、嫌なこと悲しい記憶を忘れまいとするのは酷で、そのようなことは、普通、忘れるべく努力しなければ身が持たない。
 例えば、自分の文鳥たちとたびたび死別している私は、それぞれの死の状況や遺体の様子などは、ほとんど記憶にとどめていない。しかし、完全に忘れようにも忘れられるものではないので、それはそれで無理に忘れようなどと無駄な努力はしない。楽しいことも悲しいこともあるので、それぞれを分けてしまう必要はなく、普段は楽しい思い出のみ、折に触れ悲しい思い出もよみがえらせる、程度が無難なところと心得ている。
 当然ながら、片時も忘れてはならないのは、その悲しい出来事からの教訓で、これは生かし続けねばならない。あの津波の際は、大きな揺れを感じたら津波の襲来を予期して、即座に高台に避難するようにとの教訓「津波てんでんこ」が話題となった。家に戻って家族の所在を確認したり何か持ち出すような時間はないので、それぞれてんでに逃げていることを信じなければならず、実際にそれは現実となった。
 そうした教訓に、何らかの個人的な悲しい記憶が付随する必要があるだろうか?忘れてしまっても、無問題なのである(個人の記憶は不変ではないので、案外、忘れないように努力すればするほど、本来の姿からは離れることにもなる)。

 さて、目力が弱まって心配だったキミョー↓とソウ↓↓、今夜はだいぶ気分が良さそうであった。いろいろ過去の教訓もあるので油断できないが、とにかく、一安心である。


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