文鳥に羞恥心はない

​​​禿げ部分からおとなの羽毛が生えてきている「ウメ」​​​
 「さえずりの練習(ぐぜり)は、かくれてこっそりするもの」と書いた。これを「恥ずかしがって聞かせてくれない」と表現をする可能性もある。しかし、それは人間である飼い主の主観的判断、そう見える、だけの話で、当然ながら客観的事実ではない。
 文鳥には他から見られて恥ずかしいので何かする、といった類の羞恥心は、たぶんない。他の目など気にせず生きている。もしかしたらヒサと夫婦になるかもしれない「ウメ」↑のように禿げていても、それで負い目など持ちようもないのである(自分の姿を認識していない)。
 では、なぜゆえに、飼い主の前でさえずりの練習をしないのか?擬人化せずに考えるのが、たぶん科学的思考と言うものだ。で、私の個人的結論は、「遊び仲間が近くにいたら集中して勉強できないから」、となってしまう。
 まず間違いなく、見た目以上にさえずりの練習は集中力を必要とする行為だ。記憶している誰かのさえずりを真似ようと、いろいろ喉を鳴らして音を出し、それを一定の節回しに整えていくのは大変な作業に相違ないのである。そして、彼らにとって飼い主は、元々は親だが、自立して以降は遊び仲間の位置づけとなっているはずなので、勉強するには邪魔な存在でしかない。
 かくして、ある程度自信を深め、軽い気持ちでさえずりを唄えるようになるまで、目の前で披露されることは無いわけだ。いろいろ残念無念である。

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