セツの巣ごもり続く

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​​微動だにしないセッちゃん​​

 先日、親戚の結婚式で松崎しげるさんの『愛のメモリー』を姻戚の犠牲者が熱唱し、それに合わせて親戚一同でお面をかぶって踊るというイベントがあった。事前にそれを唄う話を聞いた際は、中年にもなって痛々しいので止めるように、新郎の姉に厳しく言ったのものだが・・・。ま、それはともかく、その歌詞の末尾に「二人に死が訪れて星になる日が来ても、あなたと離れはしない」とあって、これはやはりキリスト教の結婚式での宣誓の文句「死が二人を分かつまで」を意識したフレーズに相違なく、それにしても、何と暑苦しくも鬱陶しく、それも突き抜けているのでいっそ清々しではないか、と酔っぱらいつつ感心していた。
 しかし、夫なるものは、せめて先に死んで女房を開放してやるのが筋だろう。「死が二人を分かつまで」には、本来、結婚と言う契約から解き放たれる意味が含まれていたはずなのに、それを死んでまで離さないと熱唱するとは・・・。まったく。
 さて、かく考える者にとって、自殺するに当たって誰かと一緒に死のうとするのは、奇異でしかない。もちろん親しい者との心中なら、多少は理解できる。親しい者に先立たれては、残された者は悲しくてやりきれなくなるので、それなら一緒に死んでしまう、と言う理屈は有り得る。
 ところが、見ず知らずの他人と一緒に死のうとする若い人が、一昔前くらいから大量発生しているらしく、集団で練炭自殺をはかったり、近来は一緒に死ぬと偽った者に騙されて、遺体損壊の憂き目にあってしまったようだ。しかし、誰かと一緒の自殺など、そもそもおかしいではないか?明日死ぬのか100年後なのかはわからないが、みないずれも死ぬのは間違いなく、一緒に死のうと言ってくれるそいつらもあんたも、結末は同じである。どのみち死ぬのに、なぜ今一緒でなければならないのか?一人で死ぬのは怖い?生まれてきた時は特殊なケースを除けば一人で呱々の声をあげた経験者のくせに、眠る時は目を閉じて何も見えない自分だけの世界に毎晩入り浸っているくせに、それは見当違いに他ならない。
 せっかく死にいたいなどと素晴らしく暇でなければ出来ない素敵な思い付きをして、しかも人生で最も頭の回転の良い時期にあるのだから、その機会に、さらにいろいろ自分の奥底まで突き詰めて考えてからでも遅くないのに、もったいないことだと思う。

 一昨日から、デッカの様子がおかしいので、様子をうかがっているのだが、孵化は確認できない。デッカの様子の変化とは、巣の中にいたがり放鳥時にはぐずぐずっしている点なのだが、さて、どうしたことだろう?
 それにしても、食べるの大好き遊ぶの大好きなあのセツが、これほど良妻賢母になろうとは。まったくお見それいたしました。

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