文晁は文鳥なのだ!

 文鳥を愛好する皆さまは、ブンチョウで変換したら『文晁』となってしまった経験をお持ちではなかろうか?一昨日、それで舌打ちをした私は、そう言えば、文晁は文鳥と関係ないのかしら?と考えはじめたのである。
 そも、「文晁」とは何か。周囲に聞いても知るまい。しかし、江戸時代の文化史や日本画に興味を持つ人では、知らぬ人はいない大画家、谷文晁のことである。そして、私はこの文晁が文鳥愛好家だったと推定、ほぼ確信するに至ったと言ったら、ひっくり返る人もいるかもしれない。
 そのような説は聞いたことも無いが、美術史関係者が甘かった。そもそも、1763年江戸(東京)の下谷で生まれた谷文晁は、本名は谷五郎と言い、初めの号がすでにブンチョウ(朝)で、晩年仏門に帰依してからは阿弥と称し、養子には一、実子に二とも名付けており、もう、ひたすら徹底的にブンブン(文文)なのである!文鳥に思い入れでもなければ、そこまで「文」にこだわる説明がつかないではないか!!
 そのような駄洒落を名乗るわけないと言うのは、素人(何の?)の浅はかさで、江戸っ子をなめてもらっちゃちゃ困る。伊達と酔狂で生きているのが江戸中後期の文化人で、何であれ洒落のめさずには済まない方々ばかりなのである。そうした洒落のめす江戸の雰囲気を映し出す芸能に落語が存在し、その中に『普段の袴』という噺があるのを、この際、文鳥愛好者は知っておかねばなるまい(もっとも私も知ったのは一昨日だが・・・)。まずは、8代目林家正蔵(彦六)バージョンをお聞きいただきたい(コチラ)。
 骨董屋の主人に対する身分ありげな侍の鷹揚なふるまいを真似たくなったお調子者の長屋の八が、さっそく袴を借り出して骨董屋へ行き、主人が鶴の絵をブンチョウ(文晁)だと言ったら、「ブンチョウってなあ、もっと体が小さくってクチバシの赤えのが文鳥だ」と、「ブンチョウ」違いしている。この噺が、いつから存在するのかわからないが、入谷の小野照崎神社の絵馬が文鳥だったり、上野東照宮の透塀に文鳥が紛れ込んでいたり、「18世紀後期の田沼時代と呼ばれる頃に、江戸の下町、下谷周辺に、文鳥マニアな文化人がいて、せっせと『文鳥化』工作にはげんでくれたのではないか」と指摘したことがあるが(『文鳥屋店主敬白』)、ブンチョウブンチョウブンチョウと横溢した時代と地域に生まれ育った谷文晁が、文鳥と無関係であろうはずもなく、自分の名前をわざわざ幼い頃から知っているはずのブンチョウとするからには、愛好者だったと推量する方が自然だと思える。文鳥好きの文さんだから文晁になったに相違あるまい。
 しかしながら、文鳥を描いた文晁の絵は見当たらない。弟子の作品は見かけた。年長だが文晁の弟子となっている岡田閑林の「菊鳥図」として売られている絵の鳥は、明らかに「クチバシの赤え」文鳥だ。散々描いたが不思議と残らなかったか、自分がブンチョウだからあえて文鳥を描かなかったか・・・。谷文晁、文鳥愛好者は要チェックであろう。

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