たぶんこうだったんじゃないか?

​ 当時の社会環境を踏まえ、当時の人間の考え方を想定し、どのようなことが起きたのか想像する、つまり推論、「たぶんこうだったんじゃないか?」と推理するのは楽しい。もちろん、歴史学、特に文献史学は文書にあることがすべてで、書かれていないことはないと見なす、などと教えられもするが、それは想像力がないだけである。ただ、想像に頼っては有り得ない話にもなりかねないので、断片的な証拠をつなぎ合わせて、しっかり有り得る話にしなければなるまい。
 ところで、歴史学者が文書を偏重し想像力に欠ける証左として、「浅井」の読みが挙げられる。普通に考えれば「アサイ」だが、ある時真面目な研究者が、気づいてしまった。キリスト教の宣教師が「アザイ」と濁音を付けて発音しているではないか、と。彼らは、真面目に「アザイ」とするべきだ、と主張して、現在それに従う人が多い。が、そんなものわからない。宣教師の耳には「アザイ」と聞こえたかもしれないが、当人たちは「アサイ」と言っているかもしれないのである。
 例えば、陸前高田という町がある。津波で大きな被害を受けてしまい有名になったが、高田は濁らず「タカタ」と読むのが正解だ。ところが、東北弁の発音はあまり口を開けずに鼻にかかったものなので・・・、「どちらのご出身ですか?」「リクゼンタカタ、だぁ」「ああ、リクゼンタカダですか」「タカダでねえ、タカタだぁ」「ええ、タカダですね」などといった会話になってしまう。本人は「タカタ」のつもりでも「タカダ」に聞こえるわけだ。では、織田信長の時代、16世紀の宣教師が聞いた相手がなまっていなかったと証明できますか?「アザイ」と聞こえたところで、本人が「アサイ」と発音したつもりではなかったなど、分かりはしないのである。
 さて、長い前置きはこの程度にして、1970年に現在の愛知県弥富市又八に建てられた「白文鳥発祥の地」とする石碑だ。。その裏文に横書きで次の碑文が刻まれている。
 
 「白文鳥は文鳥村として古くから知られた又八部落が日本唯一の白文鳥発祥地である 由来は尾張藩の某武家屋敷に女中奉公をして居た(八重女)が元治元年大島新四郎方に嫁入りした時櫻文鳥を持参した 其の後又八部落を中心に近郷の人々が文鳥飼育を広め明治初年頃になって遺伝の突然変異により純白の文鳥が生れたものを苦心改良を重ねて現今の純白な白文鳥の定型化に成功した 弥富町の誇りは此の先覚者達の努力に深甚の敬意を表すると共に長年にわたる伝統の成果である白文鳥を弥富町の特産物として発展させる事を誓って此の碑を建之する」​​​
 なお、碑文の表書きは縦書きなのに裏書は横書きにする「掟破り」をしているのは、歴史学の正当など忘れ去って推理すれば、おそらく石屋さんに横書きの原稿を渡したために起きた間違いで、意図したものではないだろう。になる。「しっかり確認しないとね、職人さんもいろいろだから」といったアドバイスがなかったのは、遺憾だが、かわいらしいと言えばかわいらしい。
 さて、問題は当然ながら文章の内容だ。日本唯一の白文鳥発祥地とするのは誤りであることは、「やなぎす」さんの考察で明瞭となった(『​白文鳥はいつ誕生したのか?​』)。又八新田に文鳥がもたらされる以前から、江戸に白文鳥が存在するので、これは動かしようがない。ただ、江戸のそれが潜性白文鳥なら、弥富が顕性白文鳥の発祥地である可能性は残される。
 次に桜文鳥ではなくおそらくノーマル文鳥を又八にもたらした八重さんの書き方が気になる。なぜか「(八重女)」と括弧書きされているのである。何ゆえに括弧が必要だったのか、私は特に碑文を研究したことはないが、このような表現は有り得ないだろう。しかし、わざわざ括弧をするからには、依頼者なりの意図なり事情があったはずだ。それを、ぜひ、「こうだったんじゃないか?」と推論してみなければなるまい。
 そこでまず、「八重女」の読みを考えたい。これを「やえめ」とも読まれているようだが、女性名の接尾語の「女」は、普通は「じょ」と読む。特に江戸時代以降は女性の俳人の呼称に多い。「朝顔につるべとられてもらい水」で有名な加賀千代女などもその一例だ。したがって、本名は八重で、武家屋敷で下働きをしている際に、かなり文化レベルが高く俳諧をたしなむような主人一家から「やえじょ」などと呼んでもらっていたのでは、と私はすぐに想像することになる。田舎娘である。しかも武家屋敷で下働きをするとなれば、お百姓さんの娘の口減らしに奉公に出された、つまりは裕福ならざる身の上が想像される。生まれ育った文化レベルは低く、名前に「じょ」付けされる経験などあるとは思えない。「ヤエジョ」、とても良い響きではないか?本人よほどその呼ばれ方がうれしくて、農家に嫁いだ後も「ヤエジョ」を称したが、やはり文化レベルは高くはないだろう村人には理解してもらえなかった、とそんなところではなかろうか
 つまり、1970年に石碑を造る際には「ヤエ」さんって聞いてる」「ヤエジョと言っていたらしい」「位牌に八重女とあるから「ヤエメ」だろう」となって、読み方の混乱を反映させて括弧を付けて「(八重女)」としたのではなかろうか。何も読みが混乱したからといって括弧書きする必要はないと思うのだが、文字文化に慣れていない田舎の百姓ども(こらこら)なので、正直の度が過ぎてかえっていろいろ想像させてくれて不思議はないだろう。
 八重さんについては、1963年の文鳥出荷組合の人物による証言から、元治元年1864年に大島家に嫁入りし、「明治三十九年に七○才でこの世を去った」、ことがわかる。亡くなった年と年齢は位牌に書いてあるはずなので、これは正確なものと推定される。1906年に70才なら、おおよそ1836年生まれで、元治元年には28歳になっていたわけだ。十代で嫁入りするのが普通な当時では、あり得ないほどの晩婚と言えよう。
 嫁ぎ先の大島家については、「寛永十七年大島又八郎源吉勝は、尾張藩の家来にて大河内、早川外数名の部下を率いて、現在の又八新田を開墾した」と市江村誌(1965年)にあるので、元は尾張藩に属する武士(付家老成瀬氏の配下か、犬山成瀬家に由来する話も散見する。犬山藩主たる成瀬氏は尾張藩の家老で一体とも言えるので、厳密に区別する必要はないかと思う)で、新田を開発し帰農したものと見なせる。尾張藩や犬山藩の家臣には大島姓が散見されるので、その一族だったのかもしれない。となれば、八重の奉公先は尾張藩(犬山藩)の大島氏で、その縁をたどって嫁入り先が選ばれたと考えて不思議はなさそうだ。幕末で世上が騒がしくなったので、お気に入りの奉公人も手放さねばならず、その嫁ぎ先を一所懸命見つけ文鳥を手土産に持たせた、といったところではなかったろうか。出来た人たちだったはずだ。
 ともあれ、八重さんが又八新田における文鳥飼育の始祖なのは、年代がしっかりしていて矛盾もないことから認めるべきかと思う。一方で、1970年の石碑建立段階では、突然変異で出現した白文鳥の持ち主が判然としていなかったようだ。私は、おそらく八重さんの嫁いだ大島家かそれに近接する親しい家でのことだと思うのだが、何の証拠もない。むしろ、「やなぎす」さんがご紹介されているように(『​弥富市で白文鳥が誕生したという通説はいつ生まれたのか?​』)、他の家では白文鳥発祥の地とするには不都合な認識も存在していたようだ。
 例えば1926年(大正15年)の『婦女界』に掲載された「趣味と実益の好読物 白文鳥の村を訪ふ」に文鳥農家の大河内庄助さんの証言しているそうだ(すべて「やなぎす」さんに依拠して孫引きしている。自分で調べず御免なさい)。

 「この又八の文鳥が世に出るまでには、かなりの長い道程を経て来ています。徳川末期に南京船が持ってきた並文鳥が、日本の風土に適し、だんだん繁殖して行った中に、フト白毛の雑じったものが生まれたので、好者がそれを親として、だんだん白いもの白いものと子を引いて行き、遂に雪を詐く純白のものを作り上げたのでした。ですからこの白文鳥は独り我が日本のみに産する特殊のものです。又八では、維新後に於いて四五軒これを飼うものが出来、庄助老人の親父もその一人であったということです。ところがこの白文鳥は、我が国の特産種で、外国にいないために、盛んに海外に輸出され、いくら出来てもどんどんはけて行くという所から、次第に飼育者がふえて、遂に全村挙って飼うようになったということです」
 このような個人の証言を読む際は気を付けねばならない。緑色の部分は自分の体験したものではなく、伝聞を信じて話しているに過ぎず、単純に言えば真実ではない。「だんだん白いもの白いものと子を引いて行き、遂に雪を詐く純白のもの」とするのは、おそらく潜性における(ムダな)努力、それが潜性(有色に対しては対等)なるがゆえに、桜文鳥とかけ合わせれば中間雑種(ごま塩ちゃん)になってしまい、その後、有色とかけ合わせる限り白文鳥は生まれず、中間雑種同士からは1/4だけ白文鳥が生まれる、という、初歩的なメンデルの法則で理解できることだが、それを知らなければ大混乱する遺伝パターンを示しているものに過ぎず、つまり弥富とは関係のない話が混じっていると見なさねばならない。おそらく、仲買商人などからの受け売り情報を、無批判に取り込んでしまったのだろう。
 つまり、この証言から本人の体験に基づく事実として重視すべきは、維新後には4、5軒の文鳥生産農家はあったが、白文鳥を外国に輸出することで儲かったので、飼育農家が増えて、全村(と言っても20軒)挙げて文鳥生産が行われるようになった。との経過のみである。他は無視しなければならない。
 しかし、村落の狭い社会での妬みやライバル心が渦巻いているのは当然の話で、それぞれの家が業者に文鳥を売り渡す一種の問屋制家内工業であれば、買い付け商人に飼い慣らされるのが世の常で、白文鳥は初めの頃はかなり高価だったこともあり、数家が寡占していたのを、生産拡大のため商人が売りつけるなり貸しつけるなりして、周囲に白文鳥の生産農家を増やした可能性が十分考えられる。そのような家にしてみれば、大島新四郎家周辺から発祥したものではなく、どこかの種鳥を買って増やしただけ、になるだろう。したがって、突然変異である以上、別に「苦心改良を重ね」なくても「白文鳥の定型化」は終わっているのに、改良したような商人からの噂話が信じられてもいたのではなかろうか。
 念のためしつこく繰り返すが、前半部分で白文鳥を固定化した経過が語られている部分は、すべて事実とは認められない。弥富の白文鳥は、絶対的に発現する、つまりその因子が1つあれば必ず白文鳥の外見を持つ顕性遺伝によって白いので、徐々に白を多くしていくようなものではない。突然変異で白い子が生れその子も白い子が半分生れ、と言った遺伝なので、白くするのに努力の必要はないのである。
 このように、人為的選択による改良など必要がないことは、現在の白文鳥の遺伝をごく簡単なメンデルの法則に基づいて考えただけでも明らかなので(常染色体上の顕性と潜性ですべて説明できてしまう)、一切合切すべて虚飾なのである。日本の飼鳥界の先人などは、白文鳥に少なくとも2つの大きく異なる系統があることすら気づかず、台湾のように潜性の白色純化もせず、ごま塩ちゃんを大量に発生させて私を喜ばせてくれたような人たちだ。遺伝を語る資格なし、とこの際断言させていただこう。何の参考にもならないしする気もない。
 個人的な話でも、色変りの突然変異体が生れても、別に何の努力もしたことがない。普通に育てて、普通に育っている。ただ、外見が兄弟姉妹と違うだけである。日本では数多く生まれた中で変わった色や柄の個体を珍重する文化はあったが、その珍重すべき色柄を固定化する意識が極めて低く、純粋な系統は守られず、すぐに雑種化させてしまう傾向が強い。
 現代の繁殖家には遺伝知識を豊富に持つ人もいるが、その人たちは自分たちの先達の功績を称えるあまり、あたかも自分たち同様に過去の人が知識を持っているように見なしてしまうっているのではなかろうか。品種は作るより守るものだと考える私には、好事家の珍奇趣味など、いい加減そのものにしか見えない。
 さて、顕性白文鳥の発祥地、これは謎だ。わからないのだから、弥富の又八で良いではないか、石碑も建ててしまったし、対立する候補もないし、つまりそれで丸く治まるし・・・、と私は思っているのだが、とりあえず、弥富と考えて不思議はなく、弥富に顕性白文鳥が突然変異で発祥した、とした方が、その後の経緯において都合が良いとは言える。
 何しろ「やなぎす」さんがご紹介された1877年以降のイギリスにおける白文鳥の繁殖例は、その白文鳥が顕性白文鳥であることを示しているが、それは、1864年に文鳥生産が始まった又八新田の急激な文鳥生産の拡大の歴史を説明しやすいものにしてくれる。それは、明治の初めに突然変異で現れた顕性白文鳥が、十年余にして白文鳥を生みやすいという特性において他を圧し、輸出される白文鳥の多くを占めるに至ったことを示し、弥富が他を圧する大規模生産を実現させたのは、まったくの偶然だが、顕性がその地で発祥したアドバンテージを利したから、といった説明を可能にしてもいるのである。
 と言ったところにしておこう。
 

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