『教育勅語』を幼児に暗唱させ、運動会で安倍首相を幼児に激励させていたのと同じ人物による昨今の言動は、情けない限りである。あれでは、何の信念もなく、ただ自分の利益になりそうだから、もしくは格好良さげだから、首相や『教育勅語』を持ち上げていたと言われても仕方があるまい。もし、信念であり損得抜きの敬愛なら、自分の信じるもののため一命を賭するのが、あのような人たちが好む江戸時代の幕藩体制下における「武士道」のはずである(その残滓が「明治ノスタルジー」)。
残念ながら、あの方の行動から『教育勅語』の内容で実践を確認できるのは、「夫婦相和し」だけではないだろうか。しかし、世の「バカップル」も夫婦相和してはいるのではないか。「恭儉おのれを持」さずに馬鹿を励まし合って「博愛衆に及ぼ」す真逆に迷惑をまき散らし「徳器」などどこにあるのかと、世人をあきれ果てさせる夫婦が、仲良しでも褒められまい。
安倍晋三さんの信奉者気取りだったが、今や足を引っ張る元凶だ。逮捕直前の犯人のごとく、報道関係者だかジャーナリストだか、聞いてくれる相手ならだれにでもわけのわからぬ主張をして、結局自分を追いつめてしまっている。首相夫人が百万円の現ナマを手渡しした?領収書はいらないと言ったぁ?領収書ちょーだいと言われたら、その場で指をなめなめ数えて領収書を出す気だったのか?万一にも、それが事実だとして、報酬も払わず講演を依頼した側が、その講演者から寄付を受けるなど、乞食根性よりひどいではないか。いったいどういった倫理観をなのか、そのような寄付を受けたら、恥知らずにしかなるまい。
一方、芥川賞作家で文化人として若いころから注目を浴び、反骨の保守政治家としての雄姿を一般に記憶させ、決断力のある「男らしい」ふるまいを期待されてきた人は、今や、自分の知事時代の尻拭いをしている(おそらくは政治的思惑による余計な詮索で針小棒大を招いたが、豊洲移転に問題があったのは事実となっている)恩人の娘に対して、口をとんがらせてネチネチと、およそ「女の腐ったの」を見るようなお振る舞いである。
黙って身を引き、言いたいことも墓場まで持って行ってしまうか、無知蒙昧と無責任ゆえに、中身もよくわからず決断力に富む自分のパフォーマンスとして利用しただけでも、決断した事実に対する責任を負い、「私の不明でした。ご迷惑をおかけして申し訳ない」と素直に頭を下げれば、『漢(おとこ)』としての株は上がったものを。細かいことはわかるはずないから、専門家が決めたことに従っただけ?石原慎太郎さんが、コンセンサス型の政治家だったとは、これは驚き、おみそれした!である。
決断力は素晴らしく見えても、それに責任感が伴わなければ、リーダーとして「徳器」が基本的に欠如していたことを露呈してしまう。つまり、見せかけだけで中身がない。それが政治家としての石原慎太郎だ、と断じられる致命的な危険性に思い至らないようでは、運動能力より思考能力を疑われるべきではなかろうか。このままでは、せっかくの虚像のメッキがすべて剥げて、ただの口先じいちゃんとして、晩節を汚すだけになるだろう。
決断力は素晴らしく見えても、それに責任感が伴わなければ、リーダーとして「徳器」が基本的に欠如していたことを露呈してしまう。つまり、見せかけだけで中身がない。それが政治家としての石原慎太郎だ、と断じられる致命的な危険性に思い至らないようでは、運動能力より思考能力を疑われるべきではなかろうか。このままでは、せっかくの虚像のメッキがすべて剥げて、ただの口先じいちゃんとして、晩節を汚すだけになるだろう。
お二方とも、言い分はあるに決まっており、それはそれなりに理由もあるだろう。しかし、語れば語るほど見苦しく、自分が信念とすると喧伝してきたもの、つまり、自分自信を冒涜するだけになっているように思える。
この際、軍国調がお好きのようだから、連合艦隊司令長官山本五十六のお言葉でも今更に拳拳服膺されてはいかがであろうか(もっとも、山本五十六は茶目っ気があり座敷遊びも好きだった「海軍さん」である)。
「苦しいこともあるだろう。いいたいいこともあるだろう。不満なこともあるだろう。腹の立つこともあるだろう。泣きたいこともあるだろう。これらをじっとこらえてゆくのが男の修行である」
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