ごま塩は潜性のステータスだ!


 「やなぎす」さんが弥富の白文鳥発祥説は根拠薄弱なものだとする論説をいただいた(​コチラ​)。
 なるほどあり得るな、と思いつつ、別に弥富でなくても構わないとも思っていながら、なお弥富発祥説を支持する(私は弥富には行ったことはないし、直接お世話になった人もいない。むしろ農家による生産に対して終始否定的な立場)。その理由は、状況証拠しかない(またか!)。発祥地の又八新田という集落は、田舎の小さな集落に過ぎず、白文鳥が突然変異で生まれでもしない限り、他の産地を圧倒するどころか、文鳥生産地として継続した理由が考えられないからである。温暖で文鳥生産に適した土地など、他にもたくさんあるだろうにもかかわらず、だ。
 村落社会で共通認識の下で和気あいあいと仲良く文鳥を育てていた、わけではないのが現実で、需要のアップダウンも激しく、1959年の伊勢湾台風ではすべて流されてしまったと言うし(記録の類も失われたのではなかろうか。なお、この時逃げることが出来た文鳥は、窓を開ければ飛び込んできて、文鳥生産復興の際の種鳥になったらしいが、平屋は壊滅、二階屋は種鳥が黙っても集まるとなれば、不平不満も大きかったかと思う。また一部は野生化して一時は大群をなして栄えていたようだがいつの間にか消滅している)、いろいろあったかと思う。しかし、言ってしまえば消えてしまうのが前提の、無責任なお百姓さんの会話、野良仕事の合間にする思い出話は、話半分に聞くのが礼儀のようには思っている。
 さて、ごま塩ちゃんだ。つまり、潜性白文鳥の存在を示す桜文鳥との間に生まれる白基調ながら尾羽が黒く、頭に黒い斑点、胴体の背中を中心に灰色の文鳥が(なお、私はごはんにごま塩をかけた状態を連想して「ごま塩ちゃん」と呼んでいる)、江戸時代の弘化年間頃、1840年代に江戸周辺で発祥し、台湾に渡って台湾系を、江戸周辺で繁殖され関東系として受け継がれていったと言えるか、である。
 ウチの初代文鳥ヘイスケは当然桜文鳥だが、最初の妻は横浜市緑区鴨居にあった小鳥店出身の潜性白文鳥であった。なぜ潜性とわかるのか?それは、娘たちがごま塩ぞろいで一目瞭然だったからだ。こちらの写真ページをご覧いただきたい(​​・​​・ついでに​ケコちゃん(横浜市金沢区の小鳥屋さん出身)の記事​)。何とステキなごま塩ちゃんたちだ!かくて、白と桜の子は白と桜がそれぞれ生まれる、とする昔の飼育本にあったのを信じて、ごま塩の子しか生まれないのでがっかりした小学生の頃のリベンジは果たせず、同じ結果を繰り返すことになった。
 そして、むしろごま塩文鳥ってかわいい、に考えが改まったのだが、なぜ飼育本の通りにならないのか不思議であった。それで調べた・・・わけではなく、2002年らしいが別件で愛知県農業総合試験場の『研究報告』をあさっていて(弥富系の致死遺伝について『畜産全書』からたどって報告を読んでいたが、当時は日の長さと繁殖期の関係の実証報告の方を熟読していたような記憶がある)「台湾産ブンチョウの羽色の表現型とその活用法」(『研究報告』第33号2001年12月)を見つけて、白文鳥には(少なくとも)2系統存在することがわかった(​文鳥問題​)。
 そして、自分の周辺(横浜市)では、台湾系と同じ白色の遺伝パターンを持つ白文鳥が多いと見なして関東系として、その起源はどうなっているのだろうと、疑問に思っていたのだが、「やなぎす」さんがご紹介された(「​白文鳥はいつ誕生したのか?​」)↑1840年頃に描かれたらしい「鳩小禽等図」の「替文鳥」を改めて見て、それが潜性、つまり弥富系の絶対的な顕性(優性)に対し潜性(劣性)で、有色羽毛に対し同等の表現になるごま塩ちゃんの姿ではないかと気づいた(「やなぎす」さんが以前にブログ上でご紹介されているのは読んで見ていたが、江戸時代に単発で生じた部分白化現象と考え、重視していなかった)。桜と言うよりごま塩に近いと思うのだがどうだろう?頬の白い部分が頭の白化した部分とつながり、頭には薄い色の表現や白斑の表現がある。胴体部分の茶系のたなびく雲のような表現はヒナ羽毛残りの姿で、短期間のものでしかないが、この文鳥で珍しいのは頬の下の黒いラインがしっかりしている点だろう。この黒いラインは桜文鳥でも白羽が多く出るタイプでは消えやすく、ごま塩で残るのは特異ではなかろうか。私は未見のタイプで、実在したか少々疑わしい。
 この文鳥が潜性白遺伝子を持つごま塩ちゃんであれば、何しろ「武州」とあって、江戸も横浜の大半も含む武蔵国で生産された可能性が高いので、江戸周辺にその血脈が代々伝わっていたと、推論できなくもない。そこで、また、「やなぎす」さんが訳してご紹介になっている英文史料を引用する。なお、私は「カニ文字は苦手じゃ」なので、アルファベットを見ると拒否反応が出ることもあり、原文を確認していないことを、言いのがれとして付記しておく。


 「それは文鳥が、白い羽となったり、あるいは汚い白と灰色のまだら模様になったりする事から分かる。(略)私がはじめて大きな巣引き場を見たのは江戸だった。そこでは白文鳥の大規模な生産がおこなわれていた。かなりの割合で、染みのある鳥が生まれていた。それらは白文鳥よりずっと安く売られた。これらの鳥は二重の籠で飼われていた。白く塗られた細い竹ひごと同じく白い器具の全体が、白いキャラコで覆われ、鳥は周囲の白以外には何も見えない。これが生まれる子にはっきり影響するのだという。(略)これらの白い鳥は野生の色の鳥より容易に繁殖するが、しかし、白い鳥がその色の子を産むことは少ない。

 「C.W.Gedney: “foreign cage birds”(1879)」とあるので、ジェドニーが1879年に英文で上程した本のはずだが、残念なことに「巣引き場を見た」具体的な年代が明らかでない。1868年に江戸は東京と改称しているので、それ以前のこととも思われるが、幕末の混乱期に異人さんがちょっと見学に行くのは危険であり、有り得ないことではないが少々無理なようにも思える。「Edo」と表現しているが実際は東京に変わっていて、明治に入ってキャラコ(白い綿布で当時のイギリスの主要な輸出品)の輸入や白文鳥の輸出が盛んになってからのことと考えるのが自然だろう。
 とりあえず、明治の初期までには白文鳥の繁殖が大規模に行われているものの、「白い鳥がその色の子を産むことは少ない」不安定な状態で、周りを白く囲えば、「汚い白と灰色のまだら模様」より白くなるなどと信じられていたらしい、ことがわかる。
 この時に用いられている白文鳥が弥富系(顕性白文鳥)なのか関東系(潜性白文鳥)なのか、どちらもいた可能性も有るのだが、どちらかと言われたら関東系の可能性の方が高いだろう。なぜなら、弥富系の場合、その白同士なら、顕白/顕白・顕白/有色・有色/顕白・有色/有色が生れ、このうち顕白/顕白は卵段階で致死する可能性が高いので、孵化した3羽のうち2羽は白文鳥になる。確率が半分以上なら「白い鳥がその色の子を産むことは少ない」とはなるまい。
 一方、潜性白文鳥同士なら、「白いキャラコ」などかぶせなくても、白文鳥しか生まれない。ところが私は、白文鳥同士で繁殖しなかっただろうと推測している。なぜなら、白文鳥が高値で売れ、「染みのある鳥」は「白文鳥よりずっと安く売られ」る場合、商人なら、白文鳥はすべて売却し「染みのある鳥」に白文鳥を生ませようとしたと思うからだ。つまり、ごま塩ちゃん同士の繁殖である。

 その場合、ごま塩ちゃんは潜性白因子と有色因子を持っているので、潜白/潜白・潜白/有色・有色/潜白・有色/有色が生まれる。つまり、25%は白文鳥、50%はごま塩ちゃん、25%は桜文鳥となる。この結果は遺伝子型のものなので、実際は色あいが強いごま塩ちゃんもいれば白羽の多い桜文鳥もいて、区別がつきにくいはずだ(我が家の例でもクロは桜文鳥に近く、ハンは白羽が多い)。結果、「汚い白と灰色のまだら模様」ばかりで「汚い白と灰色のまだら模様」の文鳥ばかり生まれると結論しても不思議はなく、白くなれ~白くなれ~と白い布で覆う気持ちもわかる。

 結果、明治の初期1970年代の東京周辺には、江戸時代以来の潜性白文鳥が存在し、その子孫が開港都市横浜に住む1990年代の私の周辺に多くいても不思議はない、と言えそうである。白文鳥が高値で売れるなら、その生産を輸出の窓口である港湾都市横浜で繁殖する人も多かったはずで、初期段階に輸出された潜性白文鳥が、より気候に恵まれた台湾で繁殖されたとも見なせよう。

 ウチの20代にわたる文鳥の家系は、江戸時代以来の文鳥の血を受け継いで、関東系(潜性)白文鳥の祖先も、弥富系(顕性)白文鳥の祖先も存在するのだ。そのように考えれば、何と誇らしいことだろう。

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