「見慣れてるけど怪しくね?」→「愛する文鳥と遊んでるから仲間じゃね?」
と変化したらしいアリィ。放鳥終了時の「抱擁」でさらに変わるだろうか?
中学生の読書感想文にお薦めな、コンラート・ローレンツ不朽の名著、『ソロモンの指環』については、このブログでもたびたび触れてきたが、動物行動学の入門書とされるこの本には、鳥類の刷り込み(インプリンティング)の事例が面白おかしく記載されている(第5章永遠にかわらぬ友)。
その、面白い部分を省いて、結論的な部分を抜き出せば、手乗り文鳥の気持ちを理解するために書かれたのではないかと思えてくる。
「ヒナのときから一羽だけで育てられ、同じ種類の仲間をまったくみたことのない鳥は、たいていの場合、自分がどの種類に属しているかをまったく「知らない」
「彼らの社会的衝動も彼らの性的な愛情も、彼らのごく幼い、刷りこみ可能な時期をともにすごした動物にむけられてしまう」
「衝動の対象をある特定のものに固定するこの「刷りこみ」という過程には、やりなおしがきかないのだ」
人間に育てられた文鳥は、「同じ種類の仲間をまったくみたことのない」ものばかりではなく、兄弟姉妹や他の文鳥と一緒に育っていても、人間を同種の仲間と思っている。それこそが、動物行動学の『刷り込み』の効果だが(エサをくれない兄弟姉妹より、エサをくれる親鳥の姿が記憶される)、わざわざそのような現象を引き起こしながら、飼い主の方は、初めから違う生き物だと識別出来るので、自分と自分の飼っている文鳥が、同じ生き物とは考えもしない。もちろん、その思い違いは人間として当然だが、当事者としては無責任だし無知と言わねばなるまい。そして、仲間意識で自分が見られていることを理解せずに、文鳥の気持ちを推し量れるわけもないと、私は思う。
2千倍の質量差がある以上、文鳥の方も徐々には違いを認識するはずだ、などと信じ込んでいる人もいるかもしれないが、それは自分を認識できる人間だけの話である。文鳥にせよ、他の人間以外の生き物たちは、鏡に映る自分の姿を自分の外見とは、まず認識できない。つまり、彼らは、自分の目で見える限りの主観のみで判断しており、大きさの違いやその他の客観的相違点を、我が身に照らして見出す努力はしない。
人間は、3kgで生まれ60kgに育つくらいのもので、世の中に生まれてから20倍しか大きくならないが、例えばパンダは出生当初から、1000倍程度に成長する。もし、質量の差で違和感を感じるとしたら、子パンダは親パンダを同じ生き物と認識できまい。また、幼時と成長時では色形など外見が大きく異なるのは、ごくありふれた現象であり、これがもし、「彼らの性的な愛情」の対象として、幼児の自分や兄弟姉妹の姿を刷り込んでしまえば、成長して繁殖を成功させるのは困難になってしまうはずである。親の姿を、刷り込むからこそ、正常な繁殖が可能となるのであり、それは「やりなおしがきかない」。
以上が基本とすれば、次は応用である。
ほとんど目の見えぬ段階で1羽となり、手乗り文鳥として人の手で育てられた文鳥にとって、将来、伴侶になりうる同種の仲間は、人間の姿をした生き物だけで、それが「やりなおしがきかない」となれば、将来の自家繁殖は不可能になってしまう。しかし、実際には、1羽飼育の文鳥が大きくなってから、嫁・婿を迎えて、繁殖を成功させた例は多い。我が家の現家系にしても、初代は1羽飼育のようなもので、迎えた嫁の文鳥を同等の生物として扱っていなかったが、結局、繁殖の天才として、我が家の文鳥史に燦然と輝く存在になっている。
そのヘイスケという名の文鳥の場合は、数ヶ月一緒に育った文鳥がいたので、文鳥という生き物の存在を知っていたのと、より、決定的なのは、彼が占拠していた箱巣の中に、虐げられていた嫁が自発的に突入したのが大きかった。と私は見なしている。つまり、コンラート・ローレンツは、狼少年が恋愛に目覚めて人間性を取り戻したとされるように、「人間でも大部分の哺乳類でも、性的な愛の対象は、古い昔からの遺伝の深みにささやきかける特徴によって、それと明らかにわかるもの」の一例と思われる。この性衝動が、刷り込まれた種の壁を乗り越えること、「鳥ではまったく違っている」として同著では否定されているが、きっかけがあれば、鳥類でも乗り越える。それは、ピューリッツァー賞を得た『フィンチの嘴』で、気候変動でエサが空前に豊富な状態になった際、ガラパゴス島のフィンチに異種間交雑が顕著に発生したのが観察されたのも、証左になるかと思う。
従って、1羽飼育を始めつつ、将来は嫁なり婿を迎えて、自家繁殖を試みる可能性があると思えば、鏡の中の自分の姿で、文鳥の姿や動きを見慣れさせ、迎え入れた際は、積極的に接触させて「間違い」に期待するのが、正解になるだろう。そのような準備をしなければ、文鳥の姿を見慣れない文鳥は、新入りを異生物として警戒し、接近を避けたり、逆に攻撃して排除しようとする方が自然な反応で、また、そのような状態を嫌って別々に室内放鳥するなど、飼い主が介入してしまえば、種の壁を乗り越える機会は、永遠に訪れないことになるかと思う。
鏡により、見慣れさせ、見慣れた姿が実体化した「異生物」に好奇心を抱いて接近する機会を与え(好奇心が強い若い頃の方が成功するわけである)、「種の壁」(本当は同種だが、1羽飼育の文鳥にとって、他の文鳥は鏡で見慣れていても、刷り込みされていないので、異種は異種)を乗り越えるきっかけを待つ、これは簡単ではないが、可能性はある。我が家の一羽っ子(1羽のみ孵化させて飼い主が育てた手乗り文鳥)は、人と同種と刷り込まれ、文鳥たちを異質に見えていたはずだが、孵化1ヶ月頃の段階で一緒に遊ばせるので、見慣れ、同じように行動するうちに、仲間意識が育っていくものと思われるが、それにしても、同種と信じている飼い主と一緒にいるので、それも仲間と認識が付け足されるものと思う。
このように、『刷り込み』を元にすれば、親鳥の元で育った非手乗り文鳥との付き合い方も、考えやすくなるはずだ。
彼は親鳥の姿を、自分の仲間・恋愛対象として刷り込まれている。従って、ペットショップに展示されていれば、周囲に見える他のペット動物も人間の店員も、みな異生物である。それでも見慣れてはいるので、買われた先の生き物(人間である飼い主)を極端に怖がらないかもしれないが、あくまで、恋愛対象外の異生物には相違ない。その「異種」の文鳥に対し(手乗り文鳥は人間と「同種」の文鳥、非手乗り文鳥は「異種」の文鳥と言える)、もし、毎日手の中に包むような行為を続ければどうだろう?もしかしたら、非手乗り文鳥は、それを生殖行為と受け取って、「種の壁」を乗り越えて、伴侶(もしくは愛ジン)と考えるようになるかもしれない。
同じように手懐けるように見えても、内実は違うのである。手乗りも非手乗りも、馴らし懐かせるもの、手懐けていけるペットとしては同じ、などと考えることが、『刷り込み』の意味合いを理解しない、無知で傲慢な思い違いでしかない。それぞれの気持ちを考え、自分と文鳥との付き合い方を考えたいものである。
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