江戸時代の白文鳥は潜性?

 「やなぎす」さんの「​​白文鳥はいつ誕生したのか?​​」を読んで、考えている。よほどディープな人でないと何だかわからないだろうが、備忘のため私の考えた概要を記しておく。
 なお、私の場合は、幼い頃に飼育本にあった白と桜のペアによる産み分けをしたくて、自分の桜文鳥に横浜市内の小鳥屋さんで買った白文鳥を掛け合わせたら、ごま塩ちゃんばかり生まれた、とか、桜のペアからシルバーが生れたとか白が生まれたとか、そういった個人的な体験がベースになっている(あのごま塩たちの親の白文鳥って、由緒正しい潜性白文鳥だったんじゃね?とか思って、心の中で「キャーキャー」言っているのである。何しろ初代ヘイスケの妻フクは白文鳥で、2代目のチビたち姉妹はごま塩なのである)。
 なお、現在の遺伝学に疎いのだが、優劣では誤解を招くと常々思っていたので、「やなぎす」さんに倣って優性=顕性、劣性=潜性としている。
 「やなぎす」さんのご研究は、江戸時代後期から明治期の日本やイギリスの史資料を博捜し、江戸時代に白文鳥が存在していることを明らかにしたものである。これにより、明治時代に現在の愛知県弥富市においてに白文鳥が「発祥」したとの通説は、完全に葬られたように思える。
 しかしながら、私は、氏の集められた資料を基に、むしろ、「潜性白文鳥」(ノーマルもしくは桜文鳥との間に中間色彩の私の言うところの「ごま塩文鳥」を生む系統)が江戸時代に存在したのに対して、「顕性白文鳥」(白因子が絶対優性でノーマルとの間で産み分けがおきる系統)が維新期に弥富で発祥したとの結論に達しつつある。
 まず、「やなぎす」さんは、江戸時代の絵画資料に、弥富系の白文鳥のヒナに多く見られる背中にグレーの有色羽毛がある姿を見出し、台湾系はヒナの頃から純白とされるので、その絵画のヒナを「顕性白文鳥」と断じられているようだ。しかし、台湾から輸入された文鳥のヒナが純白なのは、近い先祖に有色の文鳥がいないだけで、「潜性白文鳥」でも近い先祖にノーマル文鳥などがいれば、その姿は絵画のようになるのではあるまいか。
 その点を立証したいのだが、残念ながら、私には「潜性白文鳥」での繁殖経験がない。しかし逆に、「顕性白文鳥」と桜文鳥の子に、純白のヒナが時折生まれることなら、何度も経験している。さらに、「顕性白文鳥」のホモ型、「顕性白文鳥」同士のペアから生まれた子も、色合いはさまざまで、致死遺伝とされたものは死なずに生まれることもあり、そうした子も背中にグレーの差し毛があるのも経験している。つまり、「顕性白文鳥」はヒナの頃に背中にグレーの差し毛があるわけではない。つまり、ヒナの頃の姿で、顕性と潜性の区別はつかないと思われる。
 また、江戸時代には顕性白遺伝子が存在する証拠として、イギリスでの繁殖記録を挙げられているが、ご提示になっている事例は、1877年以降、つまり明治10年以降のものなので、残念ながら、江戸時代の白文鳥が顕性白遺伝子を持つことの例証にはなり得ない。明治前期に輸出された白文鳥が顕性白遺伝子を持つことを証明するに過ぎないのである。
 一方で、1840年代に鳩小禽等図で描かれている文鳥の姿は興味深い。その姿は、ノーマル文鳥の一部が白化した桜文鳥の姿には見えず、潜性白文鳥とノーマル(桜)文鳥の間に生まれるごま塩文鳥の濃いめのタイプで薄茶のヒナ羽毛を残す個体に見える。
 さらに、1871年旧幕臣の竹本要斎が物産展に出品した文鳥「変生ミノガタ」「変生白色」の「ミノガタ」を背中の灰色部分を蓑か箕の形と見なしたものとすれば、潜性白文鳥の因子をもつごま塩文鳥を指している可能性が考えられ、1879年ジェドニーが「江戸」で見学したと言う大規模繁殖場において「白い羽となったり、あるいは汚い白と灰色もまだら模様になったりする」文鳥とは、潜性白文鳥のF1(雑種)であるごま塩文鳥同士をかけ合わせれば、白、桜、ごま塩、すべてが生まれることを指しているようにも思われよう。
 つまり、江戸時代には潜性白文鳥が存在し、明治初期には輸出もされて台湾などにも広がったものの、数年後には後には、おそらく弥富発祥の顕性白文鳥に主役の座を持って行かれたのではなかろうか(白文鳥は高値で売り、残ったごま塩同士をかけ合わせるていたと推測する)。
 詳しくは、今後の課題としよう。
蛇足~備考~
 品種改良が常識になった時代では不思議かもしれないが、『鳩小禽等図』の半数をしめる「鳩の絵の大部分はドバトの模様の珍しいもの」に過ぎないように、江戸時代の好事家は『珍』を求めるだけで、系統だった繁殖など考えていない。たくさん生まれた中で『珍』を見つけて喜ぶだけだ。
 ましてや、ハイブリットにして他の鳥種の色を組み込むようなスキルの持ち合わせなどなく、そもそも文鳥はもともと白色を持っているので、他種から持ってくる必要はない。さらに言えば、そのようなことは今現在まで実行されていない。
 十姉妹はハイブリットで日本人が作り出したと誇る人がいるものだが、禽舎にいろいろ輸入した小鳥を放り込んでいたら、たまたまそうなっただけ、と考える方が、よほど自然である。
 小鳥の羽装変化の変異はさほど珍しくないものと思う。現に、文鳥が住むインドネシアの中でもティモール島にはティモール文鳥と言う近縁種が住み、その色合いは茶色ベースだ(その色合いを人為的に持ち込んだ文鳥の新品種もない)。
 文鳥の場合、キンカチョウやコキンチョウや一部のインコのような、部位による色合いが転位するような変異種が現れないのが不思議だ。
 弘化年間に飼育数が爆発的に増えたとしても不思議はない。その前は天保で、水野忠邦による極端な倹約令が出され、文鳥の飼育も難しくなっていたはずなので、倹約政策が頓挫した後のインバウンドが起きるからである。とすれば、将軍徳川家慶が倹約令の率先垂範のため、飼育している鳩や小鳥を出入りの小鳥屋などに下げ渡す際に、(未練がましく)姿を描きとったのが『鳩小禽等図』かもしれない。
 顕性白文鳥、つまり弥富系が主流となった理由は、日本人の混ぜたがる性質と、ごま塩の中には桜に近い容姿の文鳥がいるためかもしれない。白を入手して白の子がほしければ、相手も白にすれば良いのに、桜を混ぜたらどうなるだろう、などと考える。結果、生まれた子は桜とごま塩で白が得られない。それに比べ、弥富系は相手が桜でも白文鳥の子も生まれる。
 『雀巣庵禽譜』の「カキ」が柿渋色ならシナモン文鳥のことかもしれない。
 
顕性ホモのチビタとそのきょうだい

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