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フィンと執事(爺や)のラック
「安保法制」に関しての国会内外における時代錯誤の乱痴気騒ぎについては、語る価値もないと無視していたが、民主党が評論家の櫻井よしこ氏に、執拗に謝罪を求めている件に呆れ返り、場違いに触れておきたくなった。
そのやりとりについては、産経新聞に詳しい。まず、民主党が櫻井氏に質問状を送り、それに対し櫻井氏が回答し、さらに民主党側が再質問して、櫻井氏に昨日付で短く突き返されたといった経過をたどっている。内容を熟読して精査しているわけではないが、いったい民主党は何をしたいのだろうか?ざっとしか読まない私のような有権者の印象論では、民主党の近藤洋介氏は、批判が仕事の評論家の発言内容について、揚げ足取りに終始し、本質を見ない、もしくは、見ないふりをしている口をとんがらせた書生っぽの印象しか受けない。執拗になればなるほど、マイナス、になっているのに気づかない、その感覚が理解できないのである。
そのやりとりについては、産経新聞に詳しい。まず、民主党が櫻井氏に質問状を送り、それに対し櫻井氏が回答し、さらに民主党側が再質問して、櫻井氏に昨日付で短く突き返されたといった経過をたどっている。内容を熟読して精査しているわけではないが、いったい民主党は何をしたいのだろうか?ざっとしか読まない私のような有権者の印象論では、民主党の近藤洋介氏は、批判が仕事の評論家の発言内容について、揚げ足取りに終始し、本質を見ない、もしくは、見ないふりをしている口をとんがらせた書生っぽの印象しか受けない。執拗になればなるほど、マイナス、になっているのに気づかない、その感覚が理解できないのである。
現民主党党首の岡田氏は、かつて、政治家として、「日本を防衛するために活動している米軍が攻撃された場合、日本に対する行為と見なし、日本が反撃する余地を残すのは十分合理性がある」と公言し、また、「日本の利害に直接関わるような地域で、同盟国である米国が攻撃を受けた際、日本が傍観していていいのか、という問題意識はある」、としていたことについては、民主党側も認めているところで、その事実確認が済めば、その他は枝葉末節に過ぎない。それが、野党の幹事長の時の発言か、外務大臣になってからのものか、どれほどの違いがあるのだろうか?
普通に考えれば、アメリカ合衆国の軍隊に助力をすれば、いかなる理由であれ、それは別々の国家が一体に行動する集団行動であり、その行動が日本国の防衛を目的にするものでも、集団的自衛権の発動と見なす以外にあるまい。ただ、過去の岡田氏は、これを集団的自衛権とは見なさず、「個別的自衛権の範囲を拡張したと考えた方がいい。集団的自衛権という言葉を使わない方がいい」と、同じものに対して別の呼び方をしたがっているだけである。つまり、集団的自衛権と説明するよりも、日本国の個別的自衛権の行使に、アメリカ合衆国が付随しているのだ、と解釈したいのだろうが、それこそ、たんなる解釈論に過ぎず、他国との集団行動の必要性は認めている以上は、(自衛権に個別的と集団的の区別が必要とする前提では)むしろ集団的自衛権とみなすのが、一般的であり、その必要性を認めているという意味において、集団的自衛権を容認していた、と指摘されるのは止むを得まい。
ところが、集団による自衛権の行使を容認していた岡田氏及びその人をリーダーとする民主党は、最近「集団的自衛権の行使は要らないんです」として、どこまでを「集団的自衛権」と見なして反対し、どこまでを「個別的自衛権」と見なして必要性を認めるか、といった岡田氏的議論すら深めようとせず、昔の社会党に先祖返りし、反対のための反対姿勢を貫き、政権担当能力の根本的欠如を、賢い有権者に知らしめるのに終始した。その行動に対し、櫻井氏は「民主党への期待は所詮、無理なのかと感じ始めています」、と、たしなめてくれているが、実際はそのような甘いものではない。「政府の説明が足りない」と感じれば、自分で調べて自分で問題点を考えれば良いだけであるという事実を知る主権者(=日本国国民)の多くは、感じ始めるどころか、無理だろうとあきらめていたところにダメ押しをされ、政権担当能力を持つ二大政党の一翼を担う、との極かすかな希望も木っ端微塵にされた挙句に、その残滓すら自らの手で完全に燃やし尽くす体たらくを見せられ、言わば、遺骨は形をとどめず遺灰となって、後は遺灰が風に飛ばされて何も残らないだろう、との確信を持つに至ってしまったのが、今現在の認識だと、私は思う。元俳優で衆議院議員になってしまった山本太郎氏が、喪服でパフォーマンスをされていたらしいが、彼からお香典を頂くべきは、自民党よりも民主党だったに相違あるまい。
個人的には、日本国の自衛権を「個別的」とか「集団的」などと区別すること自体が理解不能だ。現に、日本国はアメリカ合衆国と軍事同盟を結んでおり、アメリカ合衆国が集団的自衛権を発動してくれなければ困る立場にある。万一、アメリカの領土ではないので集団的自衛権を行使しない、などとアメリカに言われたら、どうするのであろうか?
そもそも、我が日本国は、憲法の前文にあるように、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思」っているはずだ。国際社会の一員である限り、集団行動以外に無いはずで、その国際社会が「悪い奴」と認め、それを集団で退治しようとする際に、「暴力反対!」では、名誉ある地位どころか、「味噌っかす」が関の山だろう。
「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信」じ、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓」うと、(日本語として奇妙な感じもする文章だが)ともあれ憲法の前文には、そのようにも書いてある。そのような初歩の初歩は、何かと言えば「ケンポー!ケンポー!!」と叫ぶほどの人たちは、よくよくご存じのはずだ。「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と誓っておきながら、「個別ならイーけど、集団ならダメ~」では、少なくとも『護憲』精神に欠けていると言わねばなるまい。
「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」、前文に掲げられたこの言葉こそ、日本国憲法を大切に思われる方々に、拳拳服膺頂きたいものである。
「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」、前文に掲げられたこの言葉こそ、日本国憲法を大切に思われる方々に、拳拳服膺頂きたいものである。
それで、文鳥なのだが、文鳥には集団的自衛権は、たぶん無い。彼らは小さくか弱い生き物で、集団的に統率された行動も出来ないため、外敵に反撃は不可能で、四散して逃げ出すことのみが、その生き残る方法なのだ。従って、ちょっとしたことでも(あるいは1羽の勘違いであっても)、どっわぁ~、と室内を飛散し、飼い主を驚かせことになる。
・・・家族も国も何もかも捨てて、どこへなりと逃げ回れるなら、自衛権は不必要。絶対平和主義なら、文鳥に変身したほうが良いかもしれない。でも、この「喧嘩上等!」の生き物が、平和主義なのかな・・・?
・・・家族も国も何もかも捨てて、どこへなりと逃げ回れるなら、自衛権は不必要。絶対平和主義なら、文鳥に変身したほうが良いかもしれない。でも、この「喧嘩上等!」の生き物が、平和主義なのかな・・・?
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