無理せずに進歩なし

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飼い主に警戒感を抱くようになってきてくれたかな?
 
  「無理をしないように」は、言葉足らずで誤解を生む。「無理をしすぎないように」が正解だと、私は信じている。例えば、長期入院した場合、ベッドの上でまったく無理せずにいたら、寝たきり生活となってしまう危険性が高まるので、最近では、早々にリハビリという少々の無理が、患者に強制されている。
 年をとれば、肉体的な無理はできない状態になっていくが、さりとて何もしなければ、昨日出来たことは今日は出来ず、明日には起居もおぼつかない。そこまで極端でないにしても、無理をせずにのんびり過ごすだけなら、急激な衰えを招くことにもなってしまうのは、明らかなところだ。従って、散歩するなり柔軟体操をするなりして、年齢的な衰えを緩やかにしようと、心がけのある人たちは、多少の無理を厭うまい。
 若い人なら、体力面より精神面での無理が、不可欠となってくる。経験がない以上、人生は新しいチャレンジの連続なので、「ムリ~」と始めから逃げ回っていたら、出来るはずのことも永遠に出来なくなってしまうだけ。何だって、始めは「ムリ~」そうに見えるものである。
 さて、文鳥リオくんの場合、無理をしたことがないことこそ、問題の本質なのだと、私は思っている。長いペットショップでの売れ残りとして、せまいカゴの中で「食っちゃ寝」を繰り返し、今日を昨日明日と置き替えても変わらない日常を送り、たまに見に来る客にも無関心無感動になったに相違あるまい(カゴの中にいれば安全なので危機意識がなくなる)。たまたま連れてこられた我が家では、激変化の日常で、精神的な刺激の連続のはずだが、そうした周囲に何の好奇心も持てず、十年一日の生活を続けてしまっている・・・。
 確かに、リオくんを、『カゴの鳥』として見れば、おとなしくて手間がかからず、これほど結構な存在はないかもしれない。しかし、それを活き生きていると言えるだろうか?まして、変化の連続である繁殖など望むべくもあるまい?つまり、我が家の婿であるはずの彼が、婿になるためには、無理を重ねても変わらねばならず、本来は、自分自身の好奇心から変わっていくべきだが(ジョーはフィンへの片想いを基礎に激変している)、そうならない以上、飼い主がプレッシャーをかける以外にない。そうしなければ、幸も不幸も感じない、やる気も根気も何もない、観賞用の『カゴの鳥』のまま、いつの間にか息をしなくなっているだけの存在に終わるだろう。この際、抜け目なく目をぎらつかせ、手乗りであっても、飼い主の手を恐れて逃げ飛んでいく、本来の文鳥、真文鳥へと復帰させねばならず、少なくとも、その努力=無理を、飼い主はすべきだろう。
 事のついでに言ってしまえば、食って寝て息をする時間が長いのを幸福と見なすなど、全生命体の中でごく一部の人間くらいのものだ。まして、ペットなり自分以外の存在を、食って寝て息をする時間が長くしたところで、『飼育員』としての満足感しか得られまい。然り、飼育期間の長さなど、動物園の飼育員の勲章にはなっても、コンパニオンアニマルと暮らす者とは無関係だ。そもそも人間の寿命など、先天的後天的な理由によりさまざまで、健康的な生活だったから必ずしも長生きするわけではない。たとえ、不幸にして病気で夭折してしまったとして、それが不適切な生活習慣によるものであろうか?ペットを人間並みに扱って見ているなら、飼育期間の長短より重要なものがあるはずで、それは毎日の日常生活の充実だと、私は信じて疑わないことにしている。
 と、言うわけで、今日もリオくんは、しごかれねばならないのである。
 カゴから引っ張り出して、軽く放り投げ頭上休憩場へ。そしてブランコ、さらに強制水浴び、テーブルの上へのポイ捨て3回、そして、休憩場への放り投げ3回、とメニューをこなす。これで、開口呼吸にならないのだから、先天的には頑健なのかもしれない。
 さらに、無理しすぎない程度に、無理して頑張ってもらおう。 

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