気の多い飼い主~オールバード批判~

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今のところ見ているだけのラクさん
 
 さて、雑誌『ALL BiRDS』のリニューアル第一号の文鳥特集である。口をとんがらかして批判するのが好きな人間に思われそうだが、たんなる習慣なので、ご寛恕いただき(江角さんや伊藤さんは、『文鳥団地』も参考にして頂いているのでは?)、どこぞの国の政権を担う気もなく政府に対し重箱の隅をつついて自己満足に浸るだけのダメ野党のごとくにならぬよう自戒しつつ、控えめに批判したいと思う。
 文鳥特集の記事は4つある。最初の2本を執筆されているのは、飼鳥団体の役員や会長を歴任されているらしい江角正紀さんだが、「少なくとも籠の中で飛翔可能な広さは必要」と、昔ながらのご主張を繰り返しているのには、やはり昔ながらに違和感を覚える。繁殖や鑑賞目的で飼育し、カゴの中で一生を過ごしてもらう飼育ではなく、手乗り文鳥で、毎日室内で飛び回らせるようなことをしていれば、カゴは小さくても問題にはならないからである。
 江角さんは、「45cm角以上の籠」を推奨されているが、そもそもその程度では、いかに小さな文鳥といえども、「飛翔」は不可能で、せいぜい羽ばたける程度に過ぎない。文鳥たちが、脅されもしないのにカゴの中で暴れまわることは有り得ないので、室内に置いて安静にする限り、大きくても小さくても、カゴの中では、止まり木の移動の際に跳ねる程度の運動量しか得られない。
 それなりに飛び回れるような大きな禽舎のような環境で、鑑賞・繁殖を目的に飼育する感覚から敷衍するなら、鳥カゴで飼育する場合も広いほうが良い、との結論になりやすいかと思う。しかし、それは明らかに手乗りの飼育とは異なる視点であり、その異質性を自覚しないと、大多数のアマチュア飼育の感覚と乖離してしまうだけではなかろうか?せめて、手乗り文鳥で、毎日放鳥するなら、カゴの大きさにこだわる必要はない、くらいの配慮を示して頂ければ、手乗り1羽飼育なのに、6畳1間のワンルームに、他の家具を圧する巨大なカゴを鎮座させねばならないと、思い込むような誤解が生じる心配をしなくても済むものを、と思った。
 江角さんは、繁殖目的の飼育では、「さらにたんぱく質が必要です」として、「エンバクを追加するとよい」とされているが、これは突然に何を言い出すのか、といった印象を受けた。不勉強な私は、初めて耳にする説で、江角さんの昔の飼育本にも、そうした指摘はなかったはずだ。とすれば、その後のご経験の中で、えん麦の有効性を認識されたのか、それとも、飼育団体に所属されるような人たちの間で、有効性が経験的に確認されてきているのかもしれない。しかし、栄養素を見る限りでは、なぜタンパク質の給源をえん麦に求めるのか、皆目見当がつかないので、戸惑いを感じるばかりだ。
 例えば、飼料会社の近喜商事によれば、タンパク質の含有量は、アワ9.9%(以下単位略)、ヒエ9.3、キビ12.7、カナリアシード13.7に対し、殻をむいたえん麦であるオート麦は、13.5に過ぎない。つまり、カナリアシードを増量しても、えん麦同様かそれ以上のタンパク質増加が見込まれることになる。また、そもそも、いずれも十%前後なので、そのタンパク質の含有量は僅差に過ぎないとも見なせるし、それぞれの穀物の品種や産地や栽培年の気候などにより、この程度の差は異動しかねないように思える(食品成分データベースでは、えん麦【オートミール】のタンパク質含有量は13.7、アワ10.5、ヒエ9.7、キビ10.6)。
 繁殖に際して、より多くのタンパク質が必要とするなら、他にも確実な食品は多く存在するはずである。昔ながらのアワ玉でも、エッグフードでも、煮干でも良いし(乾燥卵黄は30.3、煮干は43.1)、小鳥用の補助食もいろいろあり、タンパク質の強化なら、たいていの主食ペレットも、えん麦以上に効果があるのではなかろうか(むしろたくさん食べれば済むような気もする)。
 「さらにたんぱく質が必要です」から「エンバクを追加するとよい」と、論理を飛躍させずに、じっくり考えたいところである。
 続いて、「文鳥ライター」伊藤美代子さんが、「手乗り文鳥のつくり方を伝授」されているが、自己のご体験からの独自の方法論が示されており、なかなか興味深い。
 1羽の手乗り文鳥(人から給餌を受けることで人間を自分と同じ生き物・仲間と認識している文鳥)と1対1で生活した場合、その文鳥にとって恋愛相手は飼い主だけとなるので、優しく大切に接していれば、伴侶(パートナー)と見なされ、手の中に潜ってくるなど、いわゆる「ベタ馴れ」状態になりやすい。正確に見れば、馴れる=なじんで打ち解ける、わけではなく、エサをくれる者が親であり、親であり一緒にいれば仲間に相違なく、気の合う仲間なら伴侶にして当たり前、という自然な流れでそうなるだけのことだが、ともあれそうなる。
従って「ベタ馴れ」にするためには、飼い主と一体一であったほうが良い。もし、他の家族がいれば、そちらを伴侶とする可能性があり、また、小さい頃から他の文鳥とも接していれば、文鳥も自分の仲間と見なし、文鳥も恋愛対象にしてしまうので(手乗り文鳥から見れば、人間も文鳥も同一「種」)、そうしたライバルの姿は見せずに育てるのが適切、と言うことにもなる。
 結果、複数飼育の環境下で「ベタ馴れ」であり続けるのは至難だが、伊藤さんはそれを実現させているそうだ。そのために、他の文鳥たちのカゴには「暗幕をかけ」て姿を見せず、「6ヵ月間、飼い主とだけ親密に」せざるを得ない環境にしている、と書いているのである。
 複数羽で群れ飛び、飼い主などほとんど無視して勝手に遊んでいるのを観察するのが、何より文鳥らしい姿を見られる楽しみと信じている私は、こうした「ベタ馴れ」を作り出す『技巧』を考えたことがなかった。1羽飼育には1羽飼育の楽しさ、複数羽には複数羽の楽しさがあり、それは別々で良いものと思っていたのである。しかし、「ベタ馴れ」文鳥に囲まれて生活したいと望めば、確かに不可能ではなかったのだ。
 もちろん、私の思想なり感性では、伊藤さんの飼い方は違和感を覚える(そもそもそれでは文鳥同士でペアリングして子孫を残しにくくなってしまう)。文鳥の方は飼い主一途なのに、飼い主はずいぶんと気が多く、まるで人間の『男の論理』ではないか、と文鳥側の視点で思えてしまうのである。一号さん二号さん、港港に女あり・・・。しかし、森に生えている一本一本を愛しつつ、それらが集まった森全体の佇まいも好ましく思える人もいれば、小さくて端正な盆栽の一鉢一鉢を愛し、毎日、一鉢一鉢を点検するのを、無上の喜びとする人もいて当然で、それ自体他人が批判することではない。趣味が違う、感性が異なる、文鳥に対する考え方が異なる、だけだろう。ただ、植物と動物は違うようにも思われ、そもそも自分の文鳥を家族と見なす立場とすれば、まるで愛玩物扱いにしているような感じがしてしまい、それが違和感につながってしまうものと思う。
 家庭内の一室には不釣り合いの大きなカゴを、かたくなに推奨し続ける江角さん、一方の伊藤さんと言えば、(いろいろお考えが変わられるようだが)、過去には、通常はキャリー代わりにしかならないような小さなカゴや、野鳥が飛び回って傷つかないように手狭が基本の竹カゴを推奨されていたはずなので、お二人の飼育についての発想は対極にあるように、私には思える。ところが、何の違和感もないのか、当たり前のようにそれぞれの主張が並んでいて、傍から見て面白い。
 しかし、それぞれの立場を整理せずに、根底においてまったく別な持論を並べられても、初心者は困ってしまうかもしれない、とは思った。同床異夢を楽しめるのは、勘違いに気づかない短期間のみのはずだが、不可思議なものである。
  
 最後は、「文鳥村」、白文鳥発祥地として知られる、愛知県弥富市又八に、ただ一軒だけ残っている文鳥生産農家の取材記事が載っている。
 個人的にありがたかったのは、文章発祥地の記念碑(1970年建立)の文章を、おそらく全文記載している点だ。「明治初年頃になって遺伝の突然変異により純白の文鳥が生まれ」とあるようで、この内容こそ、まったく正しいではないか、と私には思える。幕末に奉公先ですでに飼い鳥として珍しくない文鳥(碑文には「櫻文鳥」とあるようだが、おそらく実際はノーマルで呼称はたんに「文鳥」)を、譲ってもらった女性が、それを繁殖させていたら、白化個体が運命的な偶然で生まれ、その遺伝的形質が絶対優性(他の色遺伝子より表に現れる)であったために、田舎の農家の素人たちでも(江戸時代も後期の都市部には、変わり種「色変リ」の作出が大好きな「プロ」=有閑な文化人がたくさんいる)、固定化(むしろ維持)が可能だった、と言うことだろうと、私なら推測する(いちおう歴史畑出身)。有りがちな脚色を除けば、正確な伝承と見なせるかと思う。
 文鳥生産農家については、どうにも仕方がないと、十数年前から指摘し、実際どうにも仕方がなくなってしまっただけなので、個人的には、今更、特に感慨はない。弥富文鳥を愛し、特別なものと見なす人がいる以上、それをニーズとして捉え、付加価値を高めつつ価格も上げていければ良かったのだが、純情な農家にそういった商売の勘定は難しく、残念ながら、弥富の文鳥農家には、商才のある跡継ぎが出現しなかった、だけのことだと思う。
 もし弥富の白文鳥に思い入れがあり、それなりに資金がある商才に長けた人がいるなら、いっそ移住して、昔の良い面を継承し、悪い面は改め、頑張ってもらいたい。具体的に言うなら、血統管理面や残された血統そのものを継承し、前近代的で畜産的な飼育環境を改め、現代の愛好者が憧れるような衛生面を維持できる程度の飼育数に抑え、中間業者など排除し、現在の農家の卸値の10倍以上の価格で直売を基本にしていただければと、昔から、具体的なことを無責任に考えてもいる。販売ルートの確立が困難なはずだが、場合によっては、ネットで告知した上で、都会に「行商」に出てくれば良いかと思う(道端で売買すると動物取扱業としては問題になるはずなので、ペットショップに場所を借りるような形態か?)。そもそも、弥富でなくとも、弥富系の白文鳥にこだわったブリーディングは可能なのに、わざわざその地にこだわって繁殖するのも、立派に付加価値になるはずである。個人的には、良いものなら、高く売れば良い、だけだと思う。
 
 薄い雑誌だが、こうして批判してみれば、中身は濃いと言えようか。 
 
出身は弥富ではないらしいリオ君
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