例のパイプ状爆弾の青二才は、24歳で選挙に出られなかったのが不満だった、などと言っているようだ(産経記事)。それが爆弾を作って国の宰相を襲う理由になると思うのだから、ワカ者とバカ者は一字の違い、と言わねばなるまい。
確かに、18歳ですでに選挙権は持っているのに、被選挙権が25歳なのは、憲法違反ではないものの、おかしいとする考え方は昔からのものだ。
※日本国憲法第四十四条「両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない」とあり、年齢で差別してはならないとの文言はない。
しかし、一方で反対論も根強い。さらに個人的には、被選挙権はむしろ10年引き上げて35歳が妥当、だと思っている。現代の大人は精神年齢の発達が遅いので、40歳以上が妥当とする意見もある中で、35歳とする理由は、プロ野球もサッカーも大相撲も、加齢による体力の衰えを隠しきれなくなり、おおよそそのくらいで引退するからである。
そもそも、被選挙権の問題は、若者が立候補できない、ではなく、年を取ると頭しか動かず、手先としての働きが十分に担えなくなるのが本質だと思っている。年を重ねた経験という利点を加えて、年寄りには頭だけ使ってもらいましょう、現場では足手まといな「年寄りは引っ込んでろ!」というのが本質で、体力を基準とした年齢的な社会分業に過ぎない、と見なしているのである。
例えば、昔の村社会では、「おとな」と呼ばれる年寄りが決定権を持っていて、その指示の元に若い衆が働いていた。考えるのは「おとな」、動くのは若い衆だ。それはなぜかと問われたら、年寄りはまだ頭は動くし、経験の蓄積もあるが、残念ながら肉体的衰えは避けがたいから、に他なるまい。平たく言えば、体が動かないので頭を働かせるしかないのである。
体が動く若い人が、年寄りが頭だけ使って自分たちに指示をするのは不公平だ、と思い不平を抱くのも昔からだが、それでもこの年齢的分業は不変である。なぜか?逆に、年齢的に体力が衰えるのは不公平だ、と年寄りがごねたら、面倒くさいであろう?年をとるのは自然、体力が衰えるのも避けがたく、誰もが「おとな」になることを忘れ、近々10年の不公平を言い募るなど、時間の無駄にしかならない。ピーターパンではあるまいに、自分が永遠に若いと思っているのであろうか?年寄りが真似のできない肉体的な若さを持ちながら、不公平を感じるなど、およそ不自然である。現在の自分が将来の自分に対して不公平を感じるなど、そもそも自己撞着でしかないことに気づくべきではなかろうか。
世の中は個人個人の分業で成り立っていて、年齢による社会的分業も、また理にかなっている。そもそも、だれもが同じ才能を持って生まれ、同じ環境に育っているわけではない。同じことを同じようにはできないので、分業しているのであり、そこに上下や貴賤や公平不公平は、本来存在してはならない。それは、年齢による分業も同じことである。今の若者が今にしか出来ないことを今しているのが本来で、自分の将来行き着くところの年寄りの真似事などをして、バカ者になる必要などどこにもない。
ブー垂れている間もなく10年など過ぎていく。後で出来ること、後で考えた方が良いことは、後回しにするが良い。これが「おとな」の分別だと思う。
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