トップの責任

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ソウVSフィン
 昔あの朝日新聞は、その一面コラム『天声人語』が、大学の受験問題に使用されることが多いとして、若者に購読を勧めていた。しかし、新聞のコラムなど入試問題に使用するのは、その大学の文学部国文科の教授が無能である事実を示しているだけで、そのような大学、特に国文科への入学は考え直したほうが良いのではないかと、私には思われた。その程度の短い文章くらい、自分で創作できない方がおかしいではないか。
 さて、朝日が『天声人語』なら、産経の一面コラムは『産経抄』で、今朝のそれは「トップの責任」として、理化学研究所のトップである野依良治理事長に、今回のSTAP細胞騒動の責任を取り、「トップリーダーとしての身の処し方」を求めるものであった。しかし、私には、その考え方は単純にすぎるように思えた。確かに、理研の不始末に対して、組織のトップである野依さんが辞めるべきだ、とするのは、『産経抄』に限らず、世間一般の常識的な考え方で、正論のように思える。組織内で問題が生じれば、トップが責任を負うべきで、そのためにこそ、組織にトップは存在するのだと、私も思っている。さりながら、それは、主に営利企業におけるあり方で、トップに責任を負わせるべきではないケースもあるではないか?
 例えば、我が日本国である。産経新聞的な保守的思考の傾向を持つ人たちなら、理解しやすいと思うのだが、天皇陛下は、近代の「天皇機関説」や昭和天皇自身の「君臨すれども統治せず」といった信条を考察するまでもなく、歴史的に見て、権威ではあっても権力を有さない存在で、つまりは、現在の憲法が定めるごとく、象徴として存在するトップのはずである。そして、このような権威に特化した存在は、俗な責任問題から超越しているべきものではなかろうか?
 もちろん、革新的な考え方が極端な人たちは、太平洋戦争その他の帝国主義に基づく施策の責任を、元首としてトップには相違なかった昭和天皇に負わせるべきだと考えてもいた。しかし、伝統的に象徴的権威であり続ける天皇に、権力の行使による責任を負わせるのは筋違いとも言えよう。そもそも、その象徴を仰ぎつつ生活していた国民の大半は、手のひらを返し、昨日までの自分どころか、先祖代々培われた崇拝の念を捨て去って、その象徴としてのトップに責任を負わせられるだろうか?むしろ、「陛下に余計な心労をおかけした」のは「自分たちの責任だ」、と自責の方向に向かうのが、およそ自然な感情かと思う。そして、そうした大半の国民の一体感を与えることこそが、象徴としてのトップに存在していただく意味かと思う。
 ワンマンに威張り散らす絶対権力者のトップを「~天皇」と呼ぶ人もいるが、本来、権力者は天皇たり得ず、そのような喩えは間違っている。当然、理研という組織内部の有り様など知らないが、ノーベル賞受賞者でご高齢の大先生は、普通、権力者ではなく崇敬される権威としての存在で、たぶんに象徴的な意味合いが強いものと想像されよう。その理研なり、日本の理化学研究の象徴として存在するトップを、辞任に追い込むようでは、その組織は一体感を失いはしないだろうか?
 そのような、象徴としての自分の立場をわきまえているほど、その組織が存続する限り、自発的に辞めるのは難しく、また、象徴を仰いだ者たちが辞めさせるのも難しいものなのだろう。象徴的であれば、象徴的であるほど、その地位は、容易に投げ出せず、また容易に奪えない。理研にとって野依さんが象徴的な存在なら、何か個別の事件に対して引責辞任をするのは不適当で、準備を整えて次の象徴へ静かに地位を禅定するのが、あるべき自然な姿のはずである。
 権力と権威、それぞれのトップに求められるものは異なっており、権力は速やかに責任を全うせねばならず、権威は引責にそぐわない。この相違を混同してはなるまい。
 権力と権威、・・・そんなもん文鳥の社会には無いな。長老の男は、少し不自由になれば、変態のサカ坊に付け狙われてしまうし、いかにケンカが強くとも、屈服し続けるものなどいないし、隙あらばつつかれる。
 「ヒエラルキー」(階級制)が存在しないので、実に自由な社会、それが我が家の文鳥社会と言えようか。今日の画像のように、甥だか姪だかが、伯母と激しく闘うのだから、実に自由である。・・・あまりうらやましいとは思えないが。
 
 さらに激闘中
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