嘴痕を残しまくったノコリ
「なぜ人を殺してはいけないのか?」と子どもに訊かれたらどう答えるか、被害者も加害者も未成年の悲惨な殺人事件のニュースを聞きながら、この昔ながらの命題を考えた。
そもそも、そのような質問をする子どもに育って欲しくないが、それはともかく、私なら、面倒くさく思えたら「一度殺したら二度殺せないだろうが!」と、間髪いれずに怒鳴るだろう。もし、機嫌が良ければ、ちょっと考えて、「責任取れないから」とか「自分も同等だから」程度にしか答えられない。怒鳴る方が、私としては適当に煙にまけそうなのでおススメだが、説明したらつまらなくなるので(いろいろ解釈されて良いかと)、機嫌の良い方だけ理屈をつけておく。
例えば、「自分」から見て、生きている価値のないどうしようもない人がいたとして、「自分」のその価値判断を理由に殺せるのは、「自分」が知っている範囲でのその人に過ぎない。ところが、人間などというのは案外に複雑なので、仕事上悪辣非道でも、家庭では温厚な人間のことなどザラで、仕事上の関係だけでその人の全体を断罪することは出来ない。となれば、例えば、悪性腫瘍が出来てしまった際と似ているように思える。悪性腫瘍を撲滅するのを目的として、患者を殺してしまったら、何がしたいのかわからなくなる。切り取るのは、悪性腫瘍の部分だけで、お医者さんに認められるのはその部分の切除だけのはずだ。
また、「自分」もその人も人間で、人間の持つ生存権は同等とするなら、相手を殺して良い権利を「自分」に認めれば、相手にも「自分」を殺す権利を認めてやらねばならない。従って、「自分」が殺されたくなければ、相手の殺す権利も「自分」の殺す権利も認めるわけにはいかなくなる。
ついでに、「自分」が殺されたい場合、それは自分で「自分」を殺すことが出来るので、他人を巻き込む必要はない。また、「自分」以外の他人を殺したくなったとしても、その際は、そのようなことを企む「自分」を殺してしまったほうが手っ取り早い。何しろ、自分が死んでしまえば、見ることも感じることもできない以上は、地上のすべての存在を消し去るのと、主観の上では同じなのである。明かりがない夜は闇だが、明かりが多少あっても目を閉じれば闇になる。星間ロケットを開発し、邪魔な月や星々を消し去る努力をするより、目をつぶるのが確実ということである。となれば、「先に自分を殺せば済む話だから」も、先の命題の答えに成り得るだろうか。
・・・思いつくまま書いてみたが、やはりなかなか難しい。いくら懇切丁寧に深い話をしたところで、半分も聞かないに違いない(母親に死に別れる体験をしても、生命の尊さを感じているとは限らない)。少しはモノを考えられるようになっている中・高校生くらいの子どもには、「命はかけがえがなく大切なものよ」と、実に真っ当だが、聞き飽きているはずの言葉を重ねるより、やはり「一度殺したら二度殺せないだろうが!」で、後は自分で考えさせた方が楽だと思う。ただ、そのような乱暴なことを、学校の先生が言えるものかは知らない。
さて、ブログで「文鳥はちょこまか動いて騒々しい。その点セキセイインコはおとなしい」と書いたセキセイインコの飼い主に、「文鳥はおとなしいです」と、堂々と苦情を言える文鳥飼育歴30年がいないとも限らない。となれば、やはり、飼育における知恵の多寡と飼育歴は、関連性が低いと見なすべきではなかろうか?
もし、実際に長い飼育歴を持っている飼い主に対して、より飼育歴の短い飼い主が尊重すべき点があるとするなら、「二度殺せない」現実を乗り越えた、つまり、愛鳥の死を乗り越えた点、のみではないかと、私は思っている。
文鳥の飼い主が経験する最悪の経験として、踏んでしまったり扉に挟んでしまう事故がある。残念なことに、活発で物怖じしない手乗り文鳥は、そういった事故に遭いやすいのだが、この場合、飼い主は、自分が殺害犯だと思いつめ、「二度殺せない」立場になった自分を責めさいなむことが多い。しかし、死なせてしまったのは確かだが、意図的な意味合いを持つ殺害では無いのは明らかで、過失と言える面があっても、事故は事故なのである。この避けがたい強烈な加害者意識を乗り越えるには、結局、事故であるという事実と、亡くなった文鳥との思い出を悲しみ一色で塗り込めて良いのか、といった思いが必要になるのではなかろうか。
文鳥の飼い主が経験する最悪の経験として、踏んでしまったり扉に挟んでしまう事故がある。残念なことに、活発で物怖じしない手乗り文鳥は、そういった事故に遭いやすいのだが、この場合、飼い主は、自分が殺害犯だと思いつめ、「二度殺せない」立場になった自分を責めさいなむことが多い。しかし、死なせてしまったのは確かだが、意図的な意味合いを持つ殺害では無いのは明らかで、過失と言える面があっても、事故は事故なのである。この避けがたい強烈な加害者意識を乗り越えるには、結局、事故であるという事実と、亡くなった文鳥との思い出を悲しみ一色で塗り込めて良いのか、といった思いが必要になるのではなかろうか。
こうした体験を経つつ、失敗を繰り返さない努力を重ねている飼育歴なら、それは、とてつもなく重たいものがあると思う。逆に、何の反省も後悔もなく、続々と同じようなことを繰り返すだけなら、二度でも三度でも殺しているに等しく、それは1羽ずつ別々にあった個性の輝きに気づかず、文鳥の「一匹」程度の認識でなければ、不可能な行為だと思う。同じ者は「二度殺せない」のに、同じように殺しているのは、おかしいであろう。このような、個々の生命を尊重しない飼い方なり展示を繰り返し、同じような病気や事故を繰り返す、飼い主やペットショップが、いくら長い飼育歴を誇っても、そんなものは無意味だ。
誇れるような飼育歴は、重たすぎて、他人にあまり誇れなくなってしまう性質があるのではないか、 と私は思うのである。
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