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飼い主の社会性を支える文鳥の皆様
暑いのに暑いと言われる暑苦しさと言ったらないが、今日は暑かった。まだ午前11時の段階で、我が家の居間(=放鳥部屋)の百葉箱(=今の隅にある使用していない育雛箱)の温度計は34℃に近づいており、窓辺の『文鳥団地』に設置した温度計は37℃付近を示し、文鳥たちには開口呼吸をしている者が多くいた。このまま順調に気温が上昇すると、文鳥たちが目を回しそうなので、我が家では実に珍しいことながら、窓を閉めてエアコンを使用した。ただし、30℃設定。結果、『文鳥団地』に設置した温度計は34℃程度にしか下がらなかったものの、開口呼吸は見られなくなった。
なお、『文鳥団地』を設置する都合もあって、居間にはエアコンが無い。そこで、隣部屋の冷気を扇風機で居間に送り込み、ついでに換気扇を回して熱気を取りつつ、居間奥の冷気を引っ張り込むようにしている。普通、エアコンは夕方から点ける。この際は26~28℃の設定で、夜の放鳥後に、掃除してから消す。
さて、本題。以下、問題あるかと思うので、もう少し煮詰めてから、出来れば書かずに置こうと思っていた内容だが、夏仕様の勢いで書いてしまう。
猫好きな人、私の言うところのネコマニアには、「内向的で感受性が強く、独創的な発想を持っている」人が多いとされているのだが(アメリカのかなりな田舎ウィスコンシン州のキャロル大学というところで教授をしているらしいデニス・ガステロ氏のアンケート調査による【記事】。ネコ飼育者の方がIQが高いなどと、田舎大学の数百人へのアンケートで断定できたら、笑うわな、と思うのだが、立論の都合上、利用させてもらった)、これを私が多少の悪意を混じえて別の表現に変えてしまえば、「自分の世界に閉じこもり、自尊心が強くわがままで、他人の言う事を聞かず、周囲とのバランスを考えず、妄想を重ねた挙句に些細なことに傷つく、社会性を欠くタイプ」になってしまう。
社会性とは、「他人との関係など、社会生活を営むための能力」のことだが、それを欠くなどと、失礼で不穏当だ、と私より常識も社会性も備わった多くのネコマニアは思われるに相違ない。しかし、言われてみれば、同じネコマニアと思われる野良猫を身勝手に餌付けしているような人に、そんな印象を受けるのではなかろうか?そして、なぜ、同じネコマニアなのに、自分たちとその人たちが違うのか、どうしてこの違いが生じるのか、不思議に思われたことは無いだろうか?
もちろん、実際は、ネコマニアに限ったことではない。イヌマニアにも、周囲の迷惑など考えず非常識な行動をする人は多い。それは鳥マニアでも同様で、文鳥マニアにしても、「自分の世界に閉じこもり、自尊心が強くわがままで、他人の言う事を聞かず、周囲とのバランスを考えず、妄想を重ねた挙句に些細なことに傷つく、社会性を欠くタイプ」は、たくさん存在しており、ペット嫌いの人にさえ、そうした存在はさほど珍しくないだろう。そもそも、学校生活で社会性を身につけている過程にある若者には、社会性が不足しがちなのは当然で、その自覚もなく大人社会に紛れ込めば、『若者と馬鹿者は一字の違い』などと言われてしまうことになり、社会人なら、そうした例を知らないはずがない。
問題は、なぜネコマニアにそうしたタイプが、比較的に多く存在するのかで(何とか教授のよくわからないアンケート調査も微証程度にはなるだろうか。その他、科学的な根拠は探さなかったが、下記のような猫の特性上、他よりその傾向が強くならざるを得ないのは当然だと、私は確信している)、それには、飼い方、自分の愛する生き物に対する接し方、その観察方法の違いが深く関係していると思える。
イヌの場合、真っ当な飼い主は、自分の愛犬のリーダーとして振舞わねばならない。イヌという生き物は、そもそも狩りを円滑に行うため、秩序だった社会を形成する生き物であり、飼育される場合も、飼い主をリーダーと見なし、その他の家族があればそれぞれの順位付けをし、散歩で外に行けば、友好関係と敵対関係をリーダーの判断を仰ぎつつ認識していくので、他人(社会)の目を意識し、常識的な分別をしながら行動しなければならなくなってくる。つまり、飼い主は、愛犬を溺愛しつつも、愛犬を教育して導かねばならない社会的立場にあり、社会性を発揮して飼育しなけば、社会性のない噛み癖や鳴き癖などなど、問題多数の我が子と暮らす羽目に陥らせることになる。このように、例え飼い主と愛犬との2「匹」だけの生活であっても、社会性を抜きにしては成立し難いのが、イヌの特殊性と言えよう。
一方ネコの場合、自由気ままに暮らさせている飼い主が多い。外に放し飼いする人は少なくなってきたと思うが、家の中で好き勝手に動きまわり、散歩は普通しないので、飼い主と愛猫だけで完結する世界となってしまう。つまり、社会性が必要ないように思えるので、飼い主はそれを意識せず、自由気ままにネコのしたいがままにし、その自由な態度にかえって癒されることにもなる。しかし、飼い主の行動がペット動物の行動に影響するのと同様に、ペット動物の行動はそれを受ける飼い主の行動や思考に影響せざるを得ない。結果どうなるかと言えば、飼い主の方の社会性が希薄化する方向性が顕著となって不思議はないのである。やはり、飼い主の飼育態度が、飼い主自身の社会性の形成に跳ね返ってきてしまうのである。
そうした自分の社会性の危機を自覚しないタイプのネコマニアの場合、ネコを複数飼育していても、事態に変化はないように思える。何匹いても、彼らの認識は、個々の猫と自分(飼い主)との一対一の関係だけでしかないのである。例えば、Aニャン、Bニャン、Cニャンと、3匹飼育していても、自分とA、自分とB、自分とCの関係でだけに興味関心が向かい、ネコ同士がどのような関係にあり、どのような間合いで生活をしているのか、そのようなネコの社会生活にはほとんど関心を示さないものと思う。何しろ、そのようなことに関心を持たなくとも、ネコを飼育するうえでの不都合はほとんどないのである。
しかし、ネコは、ネコの社会性を持って生活をしていて、その家の中という社会においては、飼い主もネコもその社会の構成員で、互いに様々に影響し合いながら生活しているのが、現実の姿だ。飼い主がネコとの関係だけで生活を成り立たせているわけではないのと同様に、ネコにはネコの世界がある。実際、社会性のあるタイプのネコマニアは、そうしたネコ独特の世界観を観察する楽しさを知っているはずで(動物行動学的な客観的な観察ができている)、一方の、社会性を失う方向に驀進するタイプは、自分がエサをやる、自分が遊んでやる、ニャンコはこんな反応をした、それだけにしか気が回らないのではなかろうか。
しかし、ネコは、ネコの社会性を持って生活をしていて、その家の中という社会においては、飼い主もネコもその社会の構成員で、互いに様々に影響し合いながら生活しているのが、現実の姿だ。飼い主がネコとの関係だけで生活を成り立たせているわけではないのと同様に、ネコにはネコの世界がある。実際、社会性のあるタイプのネコマニアは、そうしたネコ独特の世界観を観察する楽しさを知っているはずで(動物行動学的な客観的な観察ができている)、一方の、社会性を失う方向に驀進するタイプは、自分がエサをやる、自分が遊んでやる、ニャンコはこんな反応をした、それだけにしか気が回らないのではなかろうか。
ここまで言えば、文鳥マニアな私が何を言いたいか、お察していただけるだろう。インコ飼育は、セキセイインコでさえ多数羽での騒音問題もあって、飼い主とインコとの一対一の関係になりやすく、もし数羽程度の飼育となっても、器用で飼い主が遊びがいもあるので、個々と飼い主との一体一の関係ばかり着目しがちになり、結果、そのインコの社会性に注意が向かなくなり、社会性を意識しないインコとの関係に耽溺するあまり、飼い主の人間社会における社会性が鈍麻してしまうのではないか、と類推しているのである。
一方、文鳥を複数飼育していれば、それぞれの好き嫌いなどに注目せねばならず、人間など文鳥の一種くらいにしか認識しない態度を全開で示してくれるので、飼い主も自宅生物社会の一員に過ぎず、そこに社会性を見出して生きなければならないと、認識させられる機会に恵まれている、かと思う。もちろん、文鳥でも1羽飼育のみに終始すれば、ネコ飼育やインコ飼育同様に、社会性を見失いがちになる危険性がつきまとうことは否定できず、個人的にはその実例を多々知っていると、告白せねばならない。
このように考えれば、インコや文鳥自体が、生き物の習性として、よりイヌ的か、よりネコ的かは無関係に、飼育する中で、社会性を見出しやすいかそうでないか、に着目すべきことは明白なのではなかろうか。そして、飼い主が愛するペット動物と、一対一の関係だけではなく、他との関係で位置づけることを意識的にでも無意識的にでも出来ているか、によって、変わってくるであろう。
つまり、文鳥≒イヌ、インコ≒ネコは成立せず、文鳥やイヌの飼い主は、社会性を意識しやすく、インコやネコの飼い主は、社会性を忘却しやすい、といった相違でしかない、これが、私の結論となる。そして、ネコもインコも、一対一で飼い主を魅了する存在なのだから、飼い主側が一歩引いて見れば、それまで気づかなかった社会性を帯びたしぐさや行動に気づけるはずで、そうなれば、より一層の魅力的に感じることが出来るものを、と、少々もったいない思いにさせられる。それは、一羽飼育の文鳥マニア初心者に、社会性の欠如を感じさせられることが、稀に、ではあるが、多々、気づかされるので、実感として感じるところである。第一、私が社会性欠如を感じさせられた相手に、それなりに社会性を維持して応対しようと心がけられるのは、文鳥たちの社会性の影響を受けているからなのかもしれない。とりあえず、我が家の文鳥たちに感謝しておこう。
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