ミョーいわく「ま、枝豆でもドソ」
私は、インコマニアに、ネコマニアに多いタイプを見かける比率が、文鳥マニアの中でそれを見かける比率より高いと思っていて、偏見とも言えるその思い込みを是正する機会に、なかなか恵まれないでいる。むしろ増強させられる機会の方に恵まれてしまうのには、困ったものである。
そう言えば、昨年の8月末、千葉市動物公園がベニコンゴウインコの若鳥を虐待の上で射殺した際、私が期待したよりは、インコマニアの人たちの反応がおとなしかったので意外に思えたものであった。しかし、ネコマニアより、絶対的に少ないだけに、そのようになるのも止むを得ない面があるかとも考えたものである。しかし、ネット上で目立たなくても、しっかり行動している人はいるもので、その結果なのかは定かでないものの、樹上の大型インコがタヌキに襲われるのを心配していた、善良な地方公務員氏から、動物園のスペシャリストと目される方に、現在、園長は交代している。従って、また、同様の事態が起こっては困るが、万一にも起きてしまっても、もう少しまともな対応が期待できる状態になっていると見なせそうだ。声無き声でも、黙っているよりマシと言うことかもしれない。
つまり、私が自分のブログに書いている個人的意見に、反対意見を述べたため、正面から夏仕様(物を知らない若者が多いとの想定で、教育的な指導をしたがる管理態度)の力押しされてしまっても、それ自体は気にすることはない。何しろ、その反対意見に同調する人がいるという前提で論破しようとしているに過ぎず、変えれば済むようなハンドルネームだけしか知らない一人を意識して反論しているわけではないのである。逆に言えば、ブログ主の意見に同調する人も多数いると意識して、それを論破しようと試みる客観性がないと、なかなかうまくいかず、一人相撲になってしまうとも言えよう。まさに五月蝿の飛び回るようでも、そういうものですよ。
つまり、私が自分のブログに書いている個人的意見に、反対意見を述べたため、正面から夏仕様(物を知らない若者が多いとの想定で、教育的な指導をしたがる管理態度)の力押しされてしまっても、それ自体は気にすることはない。何しろ、その反対意見に同調する人がいるという前提で論破しようとしているに過ぎず、変えれば済むようなハンドルネームだけしか知らない一人を意識して反論しているわけではないのである。逆に言えば、ブログ主の意見に同調する人も多数いると意識して、それを論破しようと試みる客観性がないと、なかなかうまくいかず、一人相撲になってしまうとも言えよう。まさに五月蝿の飛び回るようでも、そういうものですよ。
ともあれ、夏仕様の応対をしている私には、セキセイインコ多数によるおしゃべりの、破壊的なやかましさ五月蝿さ騒々しさを知らない、セキセイインコの飼い主が存在することが、新鮮な驚きであった。しかし、考えてみれば、それも当然だろう。聞いたことがないのだから。
※我が家は文鳥20羽超が飛び交っていても、テレビのボリュームを変えずに視聴していて問題とならないと言う話がメインテーマだったが、これがセキセイインコ20羽超だったらどうなるか、考えただけでも恐ろしい。しかし、それは鳥種の違いと言うだけで、同じ環境で同じようには飼えないという事実に過ぎない。繰り返しとなるが、セキセイはおしゃべりが好きなのが事実で、多ければ多いほど声が重なり合って大きくなってしまう特性を持っており、それを理解して飼わなければならない事実があるだけである。おしゃべりは、物語や会話を覚えたりして、セキセイインコ自身も楽しみながら、飼い主たちを喜ばせてくれる特性でもあり、それ自体に善悪はない。その特性を、良いものとして引き出すか、悪いものと見なさせてしまう状態にしてしまうかは、飼い主側の問題である。
昔も、物議を醸した某都議女史が視察したとされる、戸外に百個の鳥カゴを並べた犬猫鳥魚何でもござれペットショップは、さすがに存在しなかった。しかし、20個程度の汚い鳥カゴを店の前なり横合いの道路に並べ立てて商売をする小鳥屋さんなら、私が知る限りの京浜地域にいくつも存在した。大きめのカゴに、10羽程度のセキセイインコたちが放り込まれている、といった光景を目にする機会は、割と頻繁にあったのだ。むしろ、目にする前に、耳にしたとした方がが良いかもしれない。店が見える前から、その雑多な鳴き声が聞こえてくるのだから。そしてその中で、もっともポピュラーなだけに数も多く他を圧して響き渡ってくるのが、セキセイインコたちのおしゃべりだったのである。
つまり、飼わなくても、「多いとあーなる」、とは実感としてつかめていて、今でも、頭上はるかに聞こえてくれば、「あ~、セキセイインコがいるなぁ」とわかってしまう。
つまり、飼わなくても、「多いとあーなる」、とは実感としてつかめていて、今でも、頭上はるかに聞こえてくれば、「あ~、セキセイインコがいるなぁ」とわかってしまう。
で、私は、そのベランダに放置している飼い主が、前時代的に、騒音に対してルーズなため、悪気も無くそうしているのだろうと、これまで思ってきた。しかし、その認識は違っているのではないか、と、今思い始めている。もしかしたら、セキセイインコが多ければ多いほどうるさくなってしまう当然の帰結すら知らず、徐々に増やし、室内でテレビの音も聞こえない事態となって、うるさいから窓外に出してしまっている、無責任極まる飼育状況を示しているのではないか、という疑惑が大きくなっているのである。
セキセイ多数のおしゃべりが、大きな騒音になることを知らなければ、そういった飼育崩壊も起こりやすいのではなかろうか?文鳥専門の私は、 現在のセキセイインコの飼育本を精査したことはないが、しっかり複数では騒音になってしまう危険性が大きいことを、注意喚起しているのだろうか?
セキセイインコのおしゃべり好きの特性をわきまえれば、それが群れとなった場合のすさまじさくらい想像出来るように思う。しかし、群集して移動しおしゃべりし合うという習性を理解していないと、その想像すら出来ないのかもしれない。さらに、そうした習性をわきまえていないと、逆に1羽飼育の場合、留守がちであまり構ってやらないことで、大きなストレスを抱えてしまうセキセイインコの特質に対する理解も、不十分なままに飼育する人が多いのではなかろうか?と、明らかに畑違いの私も心配になってしまう。
セキセイインコは、孤独感から毛引き症になることは、昔から指摘されているところだが、こうしたストレスは、毛引きという目に見える行為にとどまらず、健康に悪影響を与えていると考えたほうが良いと思う。そのあたりは、セキセイインコの愛好者はどう解決しているのか知らないが、複数羽を近隣に迷惑をかけずに飼育できる環境がない限り、セキセイインコは飼えないと言うわけではないはずである。数が多くならなければ、(耳障りな音と感じる人が多いと個人的には思うのだが、「耳障りじゃないもん!」という感性に対して文句も言えない)音量としては、室内でそれほど気にせずにいられるのも、理解できるところだ。おしゃべりコミュニケーション不足でのストレスにしても、手乗りであれ非手乗りであれ、飼い主が徹底的に話しかければ良いはずである。もちろん、セキセイインコの長々続くおしゃべりを理解し、エサの交換の際に、ちょっと挨拶をするくらいでは足りないことくらい認識しておかないと、問題が起きやすくはなるだろうと思う。
しかし、文鳥にも個性による違いが大きいように、留守番が猛烈なストレスになるセキセイインコもいると仄聞する。その場合どうするのだろう?・・・留守中ラジオでも点けっぱなしにしておけば、かなり満足するのではなかろうか?と思って、「ラジオ セキセイインコ」で検索したら、実践されている飼い主の方もいるようだ。薦めている「専門家」がいるのかは知らないが、有効なのではなかろうか?
しかし、文鳥にも個性による違いが大きいように、留守番が猛烈なストレスになるセキセイインコもいると仄聞する。その場合どうするのだろう?・・・留守中ラジオでも点けっぱなしにしておけば、かなり満足するのではなかろうか?と思って、「ラジオ セキセイインコ」で検索したら、実践されている飼い主の方もいるようだ。薦めている「専門家」がいるのかは知らないが、有効なのではなかろうか?
専門外の飼育論はさて置き、「インコの気持ち」さらに「トリの気持ち」などと、犬猫に比して鳥の飼育数が少ないだけに、一括しなければならないことも多くなるが、実際に飼育する立場となれば、ベニコンゴウインコの気持ちとセキセイインコでは、似た面より違った面の方が多いことを理解しなければ、どうにもならないと思う。文鳥にしても、文鳥の気持ちと、同じスズメ目でもカラスの気持ちでは、共通点を探すのも無駄な努力に思えてしまうのである。
もちろん、同じような行動に着目し、その意味を探ることは、その行動の意味を考える際に有効な方法となるが、それぞれが持っている特殊性に着目し、安易に等しく見ない態度も、小鳥の飼い主には必須だ。セキセイインコの気持ちを、本当に理解したいと思うなら、トリの気持ちや、インコの気持ちとは、別物であると考えた方が良いだろう。種が異なり習性が異なれば、行動の意味も違って当然だからである。インコでも種によって違いがある、それはなぜか、生態が異なっているから、それはどのような違いなのか、といった具合に、いろいろ考えて初めて、その気持ちが理解出来てくるものかと思う。
もちろん、同じような行動に着目し、その意味を探ることは、その行動の意味を考える際に有効な方法となるが、それぞれが持っている特殊性に着目し、安易に等しく見ない態度も、小鳥の飼い主には必須だ。セキセイインコの気持ちを、本当に理解したいと思うなら、トリの気持ちや、インコの気持ちとは、別物であると考えた方が良いだろう。種が異なり習性が異なれば、行動の意味も違って当然だからである。インコでも種によって違いがある、それはなぜか、生態が異なっているから、それはどのような違いなのか、といった具合に、いろいろ考えて初めて、その気持ちが理解出来てくるものかと思う。
何となく誤解してしまう人も多いものだが、イヌは犬という一種類の生き物で、ネコは猫という一種類の生き物だが、トリは鳥という一種類の生き物ではない。それどころか、インコだけでさえ、インコという一種類の生き物ではないのである。その多様性こそ、「トリ」の奥深く楽しいところだが、それだけに勘違いも起きやすく、複雑で難しいとも言えよう。いずれのトリを、専門なり数種類の一部として飼うにせよ、いつまでも、発見は尽きないはずなので、甘く考えずしっかり付き合いたいものである。
何しろ昔は、「インコ飼育の入門にぴったりなセキセイインコ!」とか「文鳥飼育で小鳥飼育の基礎を学ぼう!」とか、軽々しく吹聴する人がいたものだ。しかし、そのような態度で学べるのは、世話をしなければ死ぬ、くらいなものであろう。実際は、セキセイインコにはセキセイインコの、文鳥には文鳥の、尽きない面白さがあり、気づかないのは鈍感なだけで、そのような人は、マニアとは認めがたいのである。自分の飼育する小鳥を愛するなら、しっかりその鳥種の習性を把握し、その行動の持つ意味を理解する努力を重ねた上で、問題行動があれば適切に対処できる、かく有りたいものかと思う。
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