ウソをつくから美人

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父似すぎで「美女」なアラシ嬢
 
 読売新聞によれば、講談社のマンガ雑誌の編集後記が、「美人はウソを言わなくても、みんながチヤホヤしてくれるからウソは言わない」と主張することで、例の科学実験が好きな割烹着女史を擁護し、物議を醸しているそうだ。
 
 美人の定義は難しく、化粧術が巧みなら、よほどのことがなければ美人に見えてしまうかと思う。整形して顔形だけ見栄え良くしても、せいぜい観賞用にしかならないはずで、それが美人なら、たいして価値はないような気もしないでもない。そもそもあの方の容姿を美しいと見るかも、なかなか難しいところだが、研究者としての価値なら、化粧無しのひっつめ髪で肌荒れニキビ満載であっても、成果と能力が全てで、美人不美人など、何の関係もないような気がする。
 それはさておき、「美人はウソを言わなくても、みんながチヤホヤしてくれるからウソは言わない」は本当だろうか?確かにそういった例もあるのかもしれないが、私は、「ウソをつかない限り美人にはなれず」、「美人ほどウソをつく」のが本質だと思っている。だいたい、化粧がうまいのは、ウソがうまいことそのものではないか?それに、化粧をしようとしまいと美人であってこそ、男へのウソが効果的なるに決まっている。残念ながら、生まれながらに容色に恵まれず、化粧術も稚拙な女性が、男に対して一所懸命ウソを言ったところで、「チヤホヤしてくれる」だろうか?誠に遺憾ながら、私はそういった事例を目撃したことがない・・・。
 対して、「美人ほどウソをつく」事例は、それこそ古今東西に枚挙にいと間がない。そもそも、ウソなり何なり自分の都合の良いように話を持って行きやすいように、自分を飾り立て美しく見せるのが、一般的に美人となる目的のはずだ。ウソをつく気がなければ、美人になる、つまりは、他人に美人と見せる必然性はあるまい。
 ようするに、あの女史を美人と見なしている時点で、その人はウソで欺かれていることを示しているのである。上手にだましだまされるだけが問題で、ウソをつくかつかないかの問題ではあるまい。
 さはさりながら、編集部のオヤジの戯言ごとき、いちいち目くじらを立てるのも、おとな気ないと、思うのだ。
 ウチの美ジンは、化粧っけ無し、天然自然、生まれたまんまそのまんまに美しい。ただ、人間の美醜感覚と、文鳥のパートナーを選ぶ基準は、同じであるはずがない。ただ、何を基準にしているのか、個々でまったく違う、つまりタイプが違うとしか思えないから、文鳥というのは、人間に似て不可思議な生き物と言えよう。

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