残念蝉の声

Untitled1.jpg
つくづく惜しい、その1

 風が涼しく、聞こえるセミの声はツクツクホウシだけ。夏の終わりを感じていたら、ツクツクホウシには聞こえず、「ツクヅクオシィ」であった。従って、今日から残念蝉と呼ぶことにした。「つくづく惜しい!」なら残念に相違あるまい。きっと、夏に何か残念なことがあった人を慰めているのである。

 つくづく惜しいと慰めたいのは、千葉市動物公園だ。麻酔銃信仰がなければ、相手が生後3ヶ月の大型インコなら、考えずに体を動かす力技に徹しても、最悪の結果に陥らずに済んだだろうに。
 その前にこのブログで取り上げた、花巻東高校の「カット打法」の選手も、つくづく惜しかった。もちろん、細井信彦氏のコラム(産経新聞9/1)のように、その選手が、相手の「体力をすり減ら」すのを、準決勝や決勝で見ることが出来なかったからではない(見せられていたら、より非難轟々になって、かわいそうなことになっただろう)。成績のためなら手段を選ばなかったり、甲子園という舞台で面白い見世物にしたいだけの大人たちから、ルール以前のモラルを教えてもらう機会のないまま、自分のチームのエースピッチャーに同じことをされたら、憤らなければおかしい「追い込まれると」「ファウルで粘り」「ボール球を待」つなどという「特異な技術」の習得に、彼の野球センスを、傾注してしまったことが、つくづく惜しいのである。
 異論があるかもしれないが、細井氏のような人なら、野球漫画『ドカベン』の土佐丸高校を思い出していただきたい。彼らは走者に球をぶつけるなど「殺人野球」を展開し、山田や里中の明訓高校を苦しめたが、あのような「特異な技術」の習得には、並々ならぬ努力が必要なはずである。その若人(わこうど)たちの努力を、よもや『邪法』とは非難されまいね?もちろん、土佐丸の犬たちの「殺人野球」に対しては、後で岩鬼がどっかんどかんとデッドボールの連投で仕返しをしたが(わかる人だけわかる話)、それも認めていただけようか?
 私はどちらも認めがたいので、『邪法』の習得などに励んでしまったこと自体を、つくづく惜しい、と言わねばならないだけである。

 さて、私の周辺にもつくづく惜しいことは転がっている。今日の写真は、ポンの飛翔写真を撮ろうとして、ごくわずかにズレてしまい、つくづく惜しかった。つくづく惜しいと鳴くセミが止まる樹木のある隣家の庭が、手入れをする人がいないらしく、雑草の展示場となってしまっているのは、つくづく惜しい。我が家の朝顔が繁茂したのは良いが、なぜかネパールではなく陽州だったのも、つくづく惜しかった。文鳥に戻れば、禁断の額縁にソウ・テイが止まるのが常態化してしまい、つくづく惜しいことになってしまいそうだ。
 ツクヅクオシイ、ツクヅクオシイ、の合唱で、秋を迎えることになりそうだ。

Untitled3.jpg

コメント

タイトルとURLをコピーしました