上空を行く謎の飛翔体?
地震、竜巻、晴れたと思えば雨、雨かと思えば晴れ、こんな日には読書と思いつつ、なぜか、ニュース動画を一所懸命見ていたのだが、以前もお薦めした記憶のある本を取り出して、飛び飛びに眺めていた。
そう、捕獲の際「正面から視界を覆う」に関連して、動物行動学の泰斗でノーベル賞科学者のコンラート・ローレンツの名著『ソロモンの指環』の中で紹介されている、ボウシインコのパパガロ君と煙突掃除人の話を思い出したのだ。
このパパガロ君は、ローレンツ大先生の家で傍若無人に振舞っていたらしいが(この実に興味深い大先生は、普通に放し飼いにしている)、煙突掃除人だけは苦手で、その黒い姿が遠くに見えると(煤だらけになるので、この職業の人の作業服は初めから黒い)、「エントツソージガキマシタヨー!」と叫びながら逃げていってしまう。この行動を、大先生は次のように解説するのだ。「一般に鳥類は、上のほうにあるものをすぐにこわがる。おそらくそれは、上方から急降下してくる猛禽にたいする生まれつきの恐怖と関係あるのだろう」、煙突のてっぺんに立つ黒い男の姿に、猛禽類のイメージが重なり、本能的な恐怖を感じた、というわけだ。
この現象は、文鳥の飼い主でも思い当たる人がいるのではなかろうか?黒い影がさっと窓外を移動するだけでも、文鳥たちは身をすくめ、あるいは警戒の鳴き声をあげるはずだ。そして、この延長線上に、猛禽類などに急降下されて肉薄されると「正面から視界を覆」われるがあり、絶体絶命で観念する本能的な動作につながるものと、私は理解している(ただし、鳥に限らないと思う)。
こうした鳥の行動学的特性を認識していると、樹上のインコを追い立てるのに、木を揺すったり、ロケット花火を用いるのは、「素人」の妄動と見なければならなくなる。風船でも竹竿の先に布切れでも、黒いものを上げて動かして見せれば、簡単に追い立てられたに相違ないのだ。少なくとも、二足歩行動物が、ドタドタと集団で樹木を揺すって失敗する姿を、テレビカメラに撮影させるよりも、知的な作業になったような気がする(ただし、どこに飛んでいってしまうかわからないので、追い立て作業そのものが、鳥類を捕獲するに際しては異常)。この『ソロモンの指環』を、中学生の読書感想文に用いる軽い本などと思わず、パラパラとでも動物園の関係者(特に鳥類の飼育員)が読んでいれば、大型インコのカゴ抜けで大騒ぎする気力は失せたに相違ないのである。
何しろ、こんな話が載っている。ローレンツ先生が駅に降りて帰宅しようとすると、はるか上空を飛んでいく白い鳥がいて、自分の飼っているオウムのコカ君だと気づく。このままでは、どれほど遠くまで飛んでいってしまうかわからない(大型インコは飛び立ったり着地する時は不器用だが、大空を直線的に飛んでいく能力に優れている)。困った先生は、駅の雑踏の中で、鳥を呼び寄せることを決意する。「ところできみはオウムが飛びながら仲間を呼ぶ声を聞いたことがあるだろうか?ない?それなら、旧式のブタの畜殺法はご存じだろう。あのときブタがふりしぼる最大の声を優秀なマイクロフォンでとらえ、それを拡声機で四倍に拡大したものを想像してほしい。人間の声でまねるなら、ありったけの声をふりしぼって「オエー、オエー」と叫べば、なお弱いとはいえほぼ近い音がでる」・・・、と説明したそれを、大先生は、おもむろに実行し、周囲の人間を「雷に打たれでもしたように、立ちすく」ませ、内心、精神錯乱者として病院送りになることに怯えたものの、賢いコカ君がその魂の絶叫に気づいて、大先生の腕に舞い降りてくれたため、事なきを得ている。
こういった文章を読むと、大の大人が、この暑いのに、集団で脱兎を追うが如きマネをしたのが、何だかバカバカしく思えてくるのではなかろうか?動物を飼育するのは、ピリピリとミスをしないように気を使うことも必要だが、おおらかでのんびりした面も必要で、特に生き物と接し、動物と会話できる指輪を手にしたソロモン王に近づくべく、動物たちの気持ちを理解しようとする時、そうした面が重要だということくらいは、日々接している飼い主も、飼育員さえも、体感的に悟っているのではなかろうか(気づかない人は、ただのエサ係に終わるかもしれない)。大型インコの場合は、捕獲という緊張状態にあっても、そのおおらかでのんびりと培ったはずの信頼関係を、ローレンツ大先生のように忘れないことが、重要だったのだろうと思う。
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