京都の大文字焼き

 今月1日の、産経新聞の山上直子さんという方のコラムを、数日前に気づいて読んで、かなり腹を立てていました(関西の産経記者さんたちには、最近立て続けに神経を逆なでしていただいて、暑さしのぎに有難いことと感謝しています)。しかし、地元保存会など運営者されている方たちのご苦労は理解できますし、何も考えず楽しむ人も多い大文字焼きというお盆の風物詩としてのセレモニー(儀式)なので、余計な悪口を文字化するのは控えるつもりでした。
 ところが、昨日、京都の大文字焼きについての記事の末尾に、「送り火をめぐっては平成23年、東日本大震災で被災した岩手県陸前高田市の「被災薪」が燃やされず、放射性物質が検出された表皮などがなおも市施設で保管されている」とあり、なぜそのような保管をしているのかわかりませんでしたが、不思議と癇に触ってしまい、話を蒸し返して嫌味を載せておくことに、翻意しました。
 山上氏は、「京都の人にとっては宗教行事の送り火」と、当然のことのようにお書きになっていらっしゃいますが、そのような寝言は、到底、認められませんね。2011年に、宗教行事として焚くのではなく、観光行事として焼いている本質が露骨に示されたので、現在、各地の花火大会と変わらない大文字焼きという、「京都の人」を含むほとんどの日本人にとって、宗教性のないセレモニー以外の何ものでもありません。そこに宗教性を主張するなど、お笑い種と言えるでしょう。むしろ、あのような不毛で後味の悪すぎる騒動を経験しながら、なお宗教行事としての送り火なのだと、被災地を含む日本人である他人に説ける「京都の人」の神経が、私には理解不能と言わねばなりません。
 この京都の大文字焼きは、以前、京都の町衆のための宗教行事の側面を持つ送り火だったに相違ないでしょう。特にその運営に携わらなくとも、毎年周囲の山々に映し出されるその火を仰ぎ見て、京都盆地に住む人たちが、自分たちの祖先を送ってくれているものだと、誤解したのも無理からぬところです。そして、市外から何万人と押し寄せる観光客が、、「京都」が客寄せに行ってくれている綺麗な見世物として、軽々しく「大文字焼き」と呼ぶのに、違和感なり嫌悪感を持ち、自分たちのお盆の宗教行事の側面を、主張したくもなったはずです。しかし、2011年の夏、日本人すべての鎮魂の思いを拒絶したのが、他ならぬ五山の送り火でした。もしあの折に、被災地の流木を焚き上げていれば、それを宗教行事として誇りとしていた「京都の人」たちと同じように、日本人すべてが、その火文字を情緒的宗教性を具現化したものとして、認めたはずです。
 ところが、「京都」は自ら、日本人の鎮魂の思いを踏みにじり、「京都の人」たちの鎮魂の思いが日本全体のものに昇華する機会を逸したばかりか、それが保存会のローカルな地域行事を、京都市が観光目的のイルミネーションとして利用しているだけの姿を、見せつけました(この件については当ブログでも散々書きました)。あの折は、『絆』などという言葉が流行っていましたが、「京都の人」も含む多くの真っ当な日本人が、被災地に対して寄せる真心を、悪気はなくとも、結果的に、深く傷つけたのです。津波で倒れた流木を焚いて送り火として、多くの日本人が鎮魂の思いを共有しようとした際に、放射性物質云々などと無知な言いがかりを付け、所詮はローカルな宗教行事だから・・・と、保存会など直接的関係者は、自分たちの殻の中に逃げ込み、地方行政側はとにもかくにも火文字の実施を優先させました。そのようなものが、見る者すべてが亡くなった人に供える送り火として見るべきものだ、などとどのツラ下げて主張できましょうか?
 実際に活動する地域の人にとっては宗教行事、見ているだけの者には花火のような観光行事であるところの、セレモニー、それだけです。宗教性を持たないセレモニーとして行われる花火や大文字焼きに、自分の宗教的思いを付託するのは、個人の自由ですが、他人にもそのように思えと強制はできないはずです。つまり、山上氏のような主張を許すような、大文字焼きを送り火として捉える宗教的な情緒の普遍化は、2011年夏に、「京都」自らの手により、真夏の陽炎のごとく儚く消えてしまったのです。それは、おそらく、取り返しはつきませんし、取り返すような行動を、寡聞にして知りません。何しろ、くべき薪は、未だ保管中、これが「京都」の現実なのです。

 死者を送る送り火?それは保存会などとして実際の運営に当たる一部地域の人々が、自分の身内に対してのみ語り伝えるべきお話でしょう?結果、たまたまその火文字を見ているだけの者の鎮魂の思いを体現する目的など、ほとんど皆無だったのですから、それは、他人が自分たちのためだけに焚いている送り火を、見ているだけの者が、勝手に自分たちの送り火のように思い込んでいたに過ぎなかっただけのことです。それに気づかされてしまえば、心ある「京都の人」は、今まで自分が持っていた情緒の喪失に戸惑い、真心を裏切られた気持ちにもなり、あれ以来、火文字に背を向けてしまうことになっているはずです。
 つまり、日本人にとっての古都、千年の都に住する、日本人の情緒を最も体現するはずの「京都の人」であれば、元々それを虚飾の火文字、たんなる綺麗なイルミネーションとしてしか見ていない他地域の人の言動を聞いても、自分もその一人に過ぎなくなってしまったと、心を痛めるだけだろうと思います。普遍の送り火としての価値あるものとして、誇れなくなってしまい、ごく一部の人たちを除けば、大文字焼きでしかないからです。
 今にしてなお、他地域の人に、あれは大文字焼きでなく、宗教行事として送り火を焚いている、などとシレっと言えるだけの厚かましさは、おそらく「京都の人」であればこそ、少数派でしょう。たった2年前のことでも、あっさり忘れられる痴呆同然の何とも羨ましい人限定のはずで、そのような人が京都の心を代表するとは、私は信じません。
 一体、たった2年前の出来事を、京都生まれで大阪在住という山上氏は、どのように見聞きしていたのでしょうか?ジャーナリストでありながら、それが、どういった精神的後遺症を、日本人の多くに残してしまったか、考慮しないで済む程度の軽い話だったか、お考えになったこともないのでしょうか?どのように寝とぼければ、「大文字焼き、違いますぅ。送り火でっせ」などと、聞いたふうな口が叩けるのでしょうか?まったく、理解不能です。
 しかしながら、この際、大文字焼きでも良いではありませんか?もちろん、それを地域の伝統として継承するのは大変であり、それをやり遂げているのは、とても立派なことです。そして、それが京都市の観光資源になるなら、これほど結構なことはないでしょう。
 ただし、それを見るだけの者にとって、それはすでに送り火ではなく、セレモニーとしての大文字焼きとしか、説明のしようのないものになっているのです。ただ見ているだけという意味では、何も考えていない他地域からの観光客と、ほとんどの「京都の人」は同じですから、日本の他地域の人々に対して、宗教行事としての送り火だ、などと主張できるものではないと、自覚なされるべきだと、私は思います。せいぜい実行している保存会の人たちの地域限定の宗教行事としての送り火ではあっても、所詮部外者には、全国にいくつかある大文字焼きの一つに過ぎなかったのです。
 他地域の大文字焼きにせよ、花火にせよ、それを送り火として見ようと見世物として見ようと、個人の勝手としか言いようがありません。それをしたり顔で「送り火として見ろ!」などと言われたら、場違いな世迷言にしか聞こえないでしょう?京都のそれも、何ら特別な存在ではなかったのです。
 残念なのか必然なのか判断できませんが、「京都の人」たちが毎年目にし、培ってきた情緒的宗教性を帯びた送り火は、2011年にその情緒が剥がれ落ち、今や、大文字焼きに過ぎないのです。もちろん、個々の心の問題ですから、以前と同じように、自分の体験と重ねあわせ、それを送り火として見るのは自由です。しかしながら、それを他人にそのようなものだと説明すれば、滑稽なだけとなってしまいます。「ウチらん行事どすから、一見さんはお断りどす」などと、よそ者ばかりの観光客にドスドス言えますか?、薪は保管中で、数万人の観光客を呼び込み続け、挙句が送り火として見ろ、笑止千万ではありませんか?2011年を境にしたこの相違を、特にジャーナリストは理解して、不愉快を再燃させる脳天気な記事を掲載するのは、控えるべきではなかったかと、私は強く思います。

 保管している薪、遅ればせにでも、大文字焼きで燃やしてみれば、送り火として輝くかもしれませんね。しかし、おそらく難しいでしょう。・・・いろいろ、無知な頑迷に振り回され、ご苦労なことですね。

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