8月15日は騒々し

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この目つきは「掻いて欲しい」

 靖国神社に参拝するしないは、制度化して強制でもされない限り、個人的問題なので、他人や他国が意見できることではない。行きたければ、春の例祭、夏の敗戦した日、秋の例祭、冬の初詣、四季折々詣でれば良いし、毎日立ち寄って、英霊に恥じない行動を心がけるのも結構なことだと思う。
 一方、昔、私が九段坂を毎週のように行き来しながら、靖国神社の境内に入らなかったことに、苦情を受ける気はない。意識的に避けたわけではなく、肉親に合祀されている人はいないようで、縁が薄かったからに過ぎない。普通の街の小社の前で頭を下げて通るのと同じくらいの態度で済ませていたわけだが、今でも、いちいち参拝しようとは思わない。
 行かない自由を認めながら、行く自由を認めないのは不合理であり、これについて他人の行動を云々するのは、自由主義を理解した人間とは言えない。したがって、一党独裁の国がこうした個人の自由を理解できないのはわかるが、いちおう自由民主主義の看板を掲げながら、それが理解できない人が多いらしい国が存在するのは、摩訶不思議な話ではある。
 自分が信じるわけではないどころか懐疑的な宗教の施設であっても、信じる人がいる限り、それが反社会的行動をとるカルト宗教でないなら、尊重するのが礼儀かと思える。信心がなければ静かに通り過ぎればよく、信心のある人の邪魔になってはなるまい。神域を騒々しくするのは、避けていただきたいものである。

 戦争と言えば、昔『傷痍軍人(しょういぐんじん)』という、まあ、乞食の一形態があった。戦争で負傷し、働けない身体になってしまったと称し、軍服姿で縁日屋台の片隅などに立って、お恵みというのか寄付金というのか、通行人から小銭をもらうのである。
 私も幼い頃見た記憶があるが、幼心にもわざとらしく、本当の傷痍軍人には見えなかったな。
 と、片脚で立ってこちらを見ているポンの姿に、懐かしいものを思い出したのであった。しかし、我が家のポンは物乞いなどしない。掻いてもらいたくても、手を出せば避けるし、そもそも他の文鳥たちと対等に争い、卑屈さは欠片もない。
 人も、かく有りたいものだと思う。

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メスに言い寄るサカ坊の邪魔に向かうポン(右端)

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