「出崎敦史のスポーツ言いたい放題」という産経新聞系のコーナーに、真夏の甲子園での野球大会を擁護する記事が載っていたので一読し、その現状認識を欠いた的外れで陳腐な内容に、呆れるよりも、その大人としての無自覚さ加減に、むしろ慄然とした。
熱中症の危険が繰り返される中、連日の猛暑に襲われる関西地方の炎天下で、野球の熱闘を演じさせるのは、大変に危険なものとなっているとの指摘に対し、「青い空、白い雲。照りつける夏の日差し。日本の夏は甲子園が似合う」などと、見当違いも甚だしいだろう。似合うか否かではない。死人が出ないような配慮を示せと、一般人から指摘されているのだ!
つい先日、炎天下の京都で、アメリカンフットボールの試合を行った高校生が、熱中症で亡くなった(12日記事)。アメフトは、フルフェイスのヘルメットと体の要所要所にプロテクターを付けて行う特殊なスポーツなので、当然ながら暑さに弱い。そもそも、陸上の短距離走の如き瞬発力と、コンタクトに耐える体力を必要とし、さらに緻密な作戦の立案とそれを状況に応じて実現させる頭脳が試されるスポーツなので、炎天下に実力を出し得るスポーツでは有り得ない。涼しい季節であっても、息を整え作戦を確認するため、通常はワンプレーごとに許される時間いっぱいに小休止の状態を持つのが普通で、また、味方が攻めている時は守備の選手が休み、守備の時は攻撃陣が休めることができるようになっている。
つまり、普通の環境であっても、休み休みでなければ身が持たない過激なスポーツと言えるが、亡くなった生徒は、攻守ともに出場し、炎天下の中を大活躍していたらしい。本人としては、レギュラーとして攻守に活躍することに誇りと責任を感じ、出崎氏のお言葉を借りるなら、「暑くて苦しくて辞めたい、と思ったことが何度もあった。でも、そこに大事な試合がある以上、逃げるわけにはいかなかった」に相違ない。確かに、高校レベルなら、攻守で活躍する選手も多いので、通常ならこうした不幸な事故も起きず、また起きたとしても、かなりの偶然と言えたかもしれない。しかし、季節は近年稀なる猛暑の真夏であり、場所は炎天下のグランウンドである。そのような中で、フルプロテクターでアメフトの試合をさせる感覚が理解しがたいほどで、まして、攻守ともに起用し続けてしまう大人の監督なり指導者とは、いったいどういった保健知識の持ち主なのか、まことに不思議と言わねばなるまい。問題は、一所懸命な生徒たちではなく、それをしっかりとサポートすべき大人たちの危機認識の欠如にあることを、スポーツ関係者は自覚すべきだろう。
近年の体罰問題の引き金となった、高校バスケットボール部の生徒が自殺した際、チームを強くするには体罰が必要だなどと考える愚か者が多く露見した。なるほど、県大会レベルなら確かにそうかもしれない。言われたことを素直に実行し規律正しく頑張っていれば、集団スポーツなどそれなりに強くなるだろう。しかし、指導者に盲従し、自分の考えを持たず考えようともしないような者が、一流のアスリートに成長出来るであろうか?プロになったり世界でメダル争いをするほど才能のある者なら、前人未到の領域を目指し、他人から教わる域を超えていかねばならないだろう。そのような気魄は、体罰を恐れて唯々諾々と従うだけの者に可能であろうか?所詮、高校のスポーツの体罰指導など、県大会レベルの学生時代の思い出作りに効果があるだけのことで、その代償として、自由な思考の成長を妨げ、柔軟な人間性の成長を阻害し、いわゆる『スポーツ馬鹿』を作り出すばかりか、アスリートとしての向上の可能性すら摘み取るだけであろう。それについては、世界レベルの選手に対し、体罰指導を行っていた日本柔道界の凋落を見れば、既に実証済みのように思える。
さて、出崎敦史なるスポーツ記者氏曰く、「高校のクラブ活動の大会を見物人が「暑いからもっと涼しいときにやれ」といっても、誰も相手にしないのではないか」。これは異な事を承るものである。では、ご自分が保護者であったら、自分の子供が生命の危険のある活動を強いられているのを見ながら、それを止めようともされないのであろうか?保護者でなくとも、社会に責任を持つ大人であれば、誰しも、他人であれ子供の健全な成長を願い、スポーツ記者の飯の種としてのサイドストーリーを含め、前時代のノスタルジーに浸るばかりで現状認識を欠く不見識に思える大人たちによる危険な見世物にならないように、子供たちへの配慮を強く求めるのは、当たり前ではなかろうか?そもそも、そのような指摘を部外者たちから受ける前に、自分たちで危険性を取り除く努力を続けるのが、スポーツ指導を行ったり大会運営を行う大人たちの見識であり、そこに常識や危機意識が欠けているようなら、厳しく社会に警鐘を発するのこそ、マスコミの役割であり、スポーツ記者としての存在意義だと思えるのだが、如何?
私は、このような危機感の欠如した記事を読むと、相撲界や柔道界で頻頻として起きた、表面上だけの伝統踏襲による、体罰その他の問題は、当事者である相撲協会や全柔連のみならず、それを取材する立場の者たちの、馴れ合い体質、危機感の欠如にあるのではないかと疑いたくなるのだが、的はずれであってもらいたいものだ。
出崎氏は、真夏の炎天下でのスポーツの危険性に対する、ごく真っ当な常識的指摘を、「「暑い夏」と「甲子園」は欠かせぬ"舞台装置"」との固定観念の故か、高校野球そのものへの否定として捉えてしまっているようでもある。しかし、なぜ、それが欠かせぬ舞台装置なのだろうか?90何回も続いているから?しかし、現状は、蔦も絡まぬ甲子園であり、昔とは違う「舞台装置」ではないのか?
そもそも、高校サッカーは真冬に東京国立競技場、ラグビーは大阪花園ラグビー場、バレーボールは東京代々木体育館を、それぞれの舞台装置として全国大会を行っているが、そこに感動はないのだろうか?高校生たちは、それぞれの夢舞台にむけ、日々の部活動に励んでいるではないか。野球が夏向きのスポーツであるとして、例えば阪神の炎暑を避け、北海道は旭川のスタルヒン球場(花咲スポーツ公園硬式野球場)に場所だけ移したとして、感動が得られなくなるはずがあるまい。
高校野球大会は、暑さに対する我慢大会ではない。日頃鍛えた野球の実力を発揮する場としてなら、よほど涼しい地域を選ぶべきだと、野球を愛する者であれば、考えない方がよほど不思議である。なぜ、甲子園にこだわるのか?取材に便利だから?利権が固定化されているから?昔からそこでやってたから?それらのどこに、高校球児のことを考えた視点があるのであろうか?
甲子園で行うのが伝統になっているが、伝統など同じ場所で続けていれば、必然的に出来上がってくるもので、甲子園である必要など、大人の退会運営上の思惑以外はどこにもない。未来ある高校球児たちのことを考えるなら、大人が、しっかりと現状の危険性を認識し、より適切な舞台装置を用意すべきであろう。
何ら危機意識もなく、『高校野球といえば夏の甲子園』などと、年寄りのノスタルジーを固守するばかりで、それを舞台装置を与えられているに過ぎない未成年の意志のように主張するのは、いい加減な大人の責任逃避に過ぎず、より危険な大会運営を続けるのを良しとするなど、恥を知るべきだと思う。
何時どこで開催しても、高校球児が必死に白球を追う姿は感動を呼ぶであろうし、どこであれ開催地が継続すれば、彼らの憧れの地になる。大人はノスタルジーや己の目先の利益に囚われず、より安全で、より彼らが実力を発揮できる舞台装置を用意すべきであり、真夏のスポーツ活動には、十分な注意喚起が必要で、教育の観点から早急なる検討が求められよう。
「青い空、白い雲。照りつける夏の日差し。日本の夏は甲子園が似合う」などと、ビール片手に出てくるような、悠長なノスタルジーを楽しんでいられるほど猶予はないと、文科省、高野連、その他高校野球関係者は、お心得あるべきだろう。
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