文鳥に恋するならポジティブに

Untitled1.jpg
賢い中でもきわめつけの天才様

 「ぐずぐず言ってんじゃないの!」とむずかる子供を叱った時、その子供は「グズグズ・・・」と口で言っていないはず・・・、言ってたら、むしろ心配だなぁ・・・。

 ところで、私が何かと使いたがるお気に入りの単語『確証バイアス』とは、心理学用語で、自分の先入観を補強することばかりを探し求めてしまう心理現象のことだ。
 人間の思考は、先入観、悪く言えば偏見から逃れられないので、絶えずそれを意識して、偏りのないように、先入観に引きずられないように気をつけないと、間違いに気づかなかったり常識を逸脱してしまったりすることにもなる。特に、自分の意見が多くの他人に影響を与える場合や、科学的客観性に基づかねばならない科学者では、『確証バイアス』に陥っていないか、絶えず自己検証することが求められ、本来の大学教育はその涵養にあるはずであるはず・・・だが、むしろそれを学生に指導する立場の人間に、『確証バイアス』の権化のごとき輩が原発事故に関しては散見され、残念なことだった(あれで、まともな学術論文を書けるのか不思議。雇っている大学の見識も疑われるが、たいていの大学の教授会など能無しの互助会に過ぎないので、大学当局を責めるのも酷かもしれない)。
 身近な話では、文鳥の行動に対する解釈での『確証バイアス』。例えば、飼い主がいつも同じ場所に座って手乗り文鳥にエサを与えていた場合、近くに飼い主がいるにもかかわらず、定位置に座った第三者の元に行きたがる様子を見て、どのように理解するか・・・。飼い主と第三者の識別が出来ていないのではないか、と考えるのは、ごく自然な類推だ。そして、「文鳥はおバカ」といった先入観があれば、その先入観を補強する事例の一つと結論づけ、それ以外の可能性を考えなくなってしまうだろう。しかし、「文鳥は賢い」という逆の考えなり、「文鳥はおバカではないかもしれない」といった疑惑なり、他の可能性を考慮する客観性なりがあれば、違った類推を試みる余裕が生まれるはずだ。
 具体的には、文鳥は、飼い主がいつも座っている定位置でエサが食べられると認識しているので、カゴの中のエサ箱にエサを食べに行くのと同じように、習慣的にその場所に行くに過ぎない。といった解釈だ。これでは、むしろより「おバカ」を証明しているように思えるかもしれないが、そういった人は自分の行動を振り返るべきだろう。たいていの人間も、決まった位置で食べているではないか?その他にも習慣的な行動は、いくつもあるはずだが、その有無で賢愚を推し量れるだろうか?もちろん、賢いという先入観で仮説を立てることも可能だ。例えば、その文鳥にして見れば、定位置にいない飼い主は、頭が悪くて場所を間違っているので、定位置に誘引しようとしている。といった解釈である。
 (1)飼い主の顔を覚えていない。(2)習慣的にエサの定位置に向かった。(3)定位置に飼い主が戻ることを求めた。
 このように解釈はいろいろあり得るので、科学的客観性を尊重するなら、先入観にとらわれず、もっとも蓋然性が高そうな仮説を探さねばならない。私の場合は、文鳥という生物は、飼い主の顔どころか、その服装センスにまでこだわりをもっており、足音ですら飼い主のものか否か聞き分けるといった事例を多々目撃しているので、(1)は問題外。(3)は細かな行動を見ていないので判断できない。したがって、仮説(2)が無難な解釈と判断するのだが、いかがなものだろうか?
 人間は、先入観から逃れられず、また普通に生活するだけなら、主観的に考え行動するだけで事足りる。つまり、個人の生活に客観的科学性など必要はなく、どのような先入観を持っていようと、他人の迷惑にならない限り、問題有りとは言い難い。それなら、文鳥飼育者の先入観は、「文鳥はおバカ」ではなく、「文鳥は賢い」がお薦めである。なぜなら、賢いと思ってその行動を観察すると、次から次にその『確証バイアス』が生じて面白いからだ。むしろ私は、「文鳥は賢い」という先入観に対する『確証バイアス』を毎日次々と目撃し、(ホームページやブログで公開している立場上、いちおう他人の目を気にしなければならないので)科学的客観性が保持するために、惨憺たる苦労をさせられるくらいなのだ。
 「文鳥は賢い」という先入観で、文鳥たちの行動にその『確証バイアス』を求めようとした方が、「文鳥はおバカ」を先入観とするよりも、より文鳥の行動を深く読み取りやすくなり、興味関心が尽きなくなる。これは人間関係でも同じはずだ。好きな人仲良くしたい人のことは、よりよく知りたいと思い、それも肯定的な面ばかり目を向けるだろうし、それでこそ幸せなはずだ。逆に嫌いな人のことは、ろくに考えたくもないだろうし、悪い面ばかり目がいって面白くも何ともないだろう(むしろ嫌悪感が増幅するだけに終わる)。肯定的、ポジティブな先入観は、さらによく知ろうという欲求を生み出しやすく、否定的、ネガティブな先入観は、考えを深めることを妨げがちになるのである。したがって、他人に勧めるなら、ポジティブシンキングの文鳥観察、「おバカ」な面より「賢い」面に注目し探し出す、であるべきだと、私は信じている。
 前述の事例にしても、ネガティブな先入観「おバカ」なら、(1)で終わってしまう。ところが、ポジティブな先入観「賢い」なら、なぜ一見愚かに見える行動をするのか、その理由をいろいろ考えることになり、それを裏付けるために細かな挙動をより詳細に見て取ろうとしたはずである。例えば、第三者に乗った際の態度は飼い主の場合と同じか、飼い主の方を見なかったか、定位置にいる第三者がエサを与えた場合、そうでない場合、いろいろ注目すべき点が出てきたはずである。おバカだから。で終わっていれば気付かなかった発見があり、それでこそ、より親しく仲良くなった実感が持てるのではなかろうか。
 手乗り文鳥を飼ったことがない、よく知らない、知りたいとも思わない人と、一般的会話をするだけなら、「ちっちゃい脳みそで、おバカなの」と、テキトーに調子を合わせていれば良い。恋愛の相手の好きな点を、第三者に列挙し熱く語っても意味がないのと同じである。しかし、自分自身のことである以上、内心は、全力で文鳥の行動の意味をポジティブシンキングすることを、強く推奨したい。

 で、我が家14代の賢い文鳥たちの中で、飼い主が天才と呼ぶのは、初代と9代。そして、そのキュー様。放鳥時間にお迎えにあがると、ツボ巣にぶら下がっていた。ちょっと片脚の指、むしろ爪がツボ巣のふちの牧草に食い込んで抜けなかったようだ(脚に力がない)。
 この程度では驚かない飼い主は、救助し、自分で水を飲ませ、エサ場に置くと、ひたすらモミを食べていた。飼い主に感謝などしないのが、いかにも天才らしいところだ。
 帰る際には、爪を切り、全身くまなくマッサージしてやったが、やはり感謝はされない。天才だからである。素晴らしいではないか。

コメント

タイトルとURLをコピーしました