汐崎準さんのマンガ、『鳩胸退屈文鳥』を読んだ。新刊本を買わないくせに、好き勝手書くのも気が引けるが、読後感想を。
まず前半の文鳥の話。手乗り文鳥の箱入り息子と飼い主のありがちな日常・・・、シチュエーションが作者の文鳥君の故郷である今市子さん(『文鳥様と私』の作者)の仕事場なので、普通ではないと言えば普通ではないが、一般論としてなら、女性的、もしくは主観的感覚的飼い主の視点としては、共感できる部分が多いものと思う。
では、男性的と言えるかどうかはわからないが、客観的に、その見方への同調は難しい。あまり細かく指摘はしないが、文鳥の場合、目の前で急変されて呼吸が止まれば、獣医さんでもどうにもならない。また、体重など気にするくらいなら、測らない方がマシだ。鳥の専門性が確かな獣医さんに問題無しとされながら、それでも数値を気にするなど、おかしな話である(獣医さんが信用できなければ行かなければ良い)。運動不足で飛ぶのが下手なのは、いかがなものかと思うが、人間でも、体育会系が長生きするとは限らず、むしろその逆も起こりがちなので、飼い主の人間としての何となくの思い込みに囚われなくても良いだろう。
今さんファミリーは、「とりあたま」を「鳥頭」とする誤解が根深いようだが、あまり繰り返すと、真正の鶏頭(とりあたま)となる。「とりあたま」などと言う表現は、人間が同じ人間を例える際に許される程度の戯言で、鳥に対して用いれば、地球上に数千種も存在する鳥類の生態について無知蒙昧であると、自己申告するようなものなのである。
文鳥の行動を、「とりあたま」の一言で納得するようでは、「甘い!」とか「だから女は・・・」とか言われてしまいかねず(人間の女性の方が、普通は男性よりも脳のサイズは小さい。では、それを根拠に「女は馬鹿だ」と人類の約半分を卑下出来る度胸があるだろうか?性別より、その場のおしゃべりで調子を合わせてしまって深く考えないのが習慣化しているだけだと、私は思う)、むしろ、せっかくの生態観察の機会を逸しているように思える。たまたま席が変わった時、飼い主がいつもいる場所に座る他人の元に行くのは何故か?「とりあたま」で、飼い主の顔を覚えていないから?そうだろうか?文鳥は、エサをもらえるのは、その位置、その場所、と認識しているだけではなかろうか。人間の方が、「私が」エサを与えている、と思っても、文鳥は「その場所で」もらっていると認識しているとしたら、それはどちらが「とりあたま」と言えようか?例えば、社食か何かで、並んで定食の券を出せば、それをトレーに乗せてもらえる。配膳してくれるのが、ベテランのおばちゃんでもバイトのねえちゃんでも臨時のコックのおっちゃんでも、たいして気に止めないのではなかろうか?
そういった感じで、基本的に今さんの「サークル」でのお話であり、絵柄も似ているので、『文鳥様と私』が好きなら、そのスピンオフ(派生)として、読んでおきたい作品と言えるかと思う。
後半は、2007年『月刊チャンピオン』に掲載された、文鳥とは基本的には無関係な、ジャングルで野鳥保護に一所懸命な獣医さんと、人の良い駆け出しの臨床獣医さんのお話。
感想・・・、ジャングルで野鳥の保護活動をする人と、街中で他人の家族であるペット動物の診療をする人を、『獣医』の括りで同じものと見なすことに、そもそもの無理があり、未消化なままに終わってしまっている印象だけが残った。
鳥臨床の獣医さんの中にも、趣味で野鳥の保護活動をするのと、仕事で飼い鳥の診療をすることの区別がついていない人がいて、文鳥を治療に行った飼い主に、何を思ったのか、鳥は自然に大空を飛ぶべき生き物だとか、野鳥を賛美して飼い鳥を卑下する持論を押し付けられた話は聞いたことがある。しかし、職業が飼い鳥を診る者が、飼育を否定するのは自己否定であり、職業倫理に欠けているだけだと私は思ったものだ。
街で動物病院を開業しているような獣医さんにとって、野鳥の観察や保護は趣味に過ぎない。それは、自腹で勝手にやっているだけで、秋葉原で小娘ダンスを鑑賞するのを趣味とするのと、他人から見れば、さして変わりはない。野鳥を保護することで治療経験を増やすことが出来るが、野鳥との接触は感染症のリスクを伴うので、飼い鳥の臨床医なら、職業倫理上、むしろそれを敬遠しても不思議ではない趣味とも言える。つまり、小娘ダンスの方が、鳥の臨床医にとって、おそらくリスクは少ないのである。
昔「大空に翼を広げ飛んでいきたい」のは人間であって、鳥はそんなことは考えないと、書いた(『文鳥問題』)。ジャングル獣医氏は「飼い馴らされ、つなぎとめられて、翼を持つ意味も忘れて暮らすのが幸福だと、そんな思い込みは人間の奢りだ」と語るのだが、それも人間の解釈でしかないのである。野生している生き物を、人間のつくった環境に閉じ込めるのは、その鳥にとって不自由この上ないが、逆に人間の環境で育った飼い鳥に、大空を駆け巡るのを望むのは、過酷であり無責任なのである。
野鳥は、スズメなど身近にもいるので、飼い鳥の問題と混同してしまうが、犬や猫ならどうだろう?野生の狼や山猫などを観察し、その保護活動をおこなう学者さんと、街中でトイプードルやアメリカンショートヘアの治療をしている獣医さんが、同じ思想なり信条で臨めるだろうか?まして、自分の主観からの正義で、相手に対して非難がましいことを言うだろうか?野生動物の保護活動を職業とするなら、一所懸命それに邁進すれば良く、ペット動物の治療を職業とするなら、やはり一所懸命それに邁進すれば良く、マンガ家のアシスタントならベタ塗りに精を出し、文鳥の飼い主なら、自分の文鳥の幸福を(少し客観的に)考えだけで良いのだ、と、私はシンプルに思ったのであった。
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