今現在、原発稼働再開に反対している、関西電力管内の電力消費者は、昨年来の自分たちの考え方の変遷を、じっくり思い起こされるべきではなかろうか。もちろん、私を含め無責任な一般ピープルが、その時その時で感じたことに一貫性などなくて当然であり、覚えていないかもしれない。だが、地域のトップに立つ政治家なら、そうはいかないだろう。そこで、とりあえず、橋下大阪市長さんの原発や電力に関するご発言の変遷を、ノートにでも抜き出して、それが政治家として一貫性や先見性があるものか確認し、他山の石にするのも一興かもしれない。
なお、誤解されるといけないので断っておくが、私は橋下さんを独裁的だとか「ハシズム」などと、ほとんど感情的に非難する人たちに、より不快を感じている。市長選の際は、独裁だの何だのと既成政党が、右も左も全部、何と共産党までもが反橋下で結集し、死にものぐるいの組織戦を展開していたようだが、それこそ大政翼賛であり、全体主義であり、ファシズムというべきであって、自由民主主義を否定した地方の既得権保護の亡者どものあがきとして、気色が悪くなったものである。つまり、地方自治体の改革では、橋下さんにずいぶんと期待しているのだが(横浜のあの前市長を盟友としたらダメかとは思う)、電力の需給問題については、国政レベルの政治的資質を疑問視せざるをえない。
繰り返しとなるが、定期検査を終えた原子力発電所を再稼働させない、などと言うのは、本来、理屈がない。危険性があるので止めるのであれば、昨年の大天災による原発事故の際に全停止せねばならず、東京電力管内がそうであったように、公共交通がストップし(そういうことにはならないと前夜の会見で東電は説明していた。見通しの甘いデタラメで、翌朝の体たらくに大いに唖然とした。原発の事故を起こしたことよりも、あのいい加減極まる対応で、私は東京電力など信用できないことを悟った)、全国的に「輪番停電」「計画停電」が実施されるべきであった。しかし、現実は、事故の重大な進行に気を取られ、他の健全に稼働中の原発を止めることに、ほとんどの人間は気付かなかったのではなかろうか。
しかし、幼児的な放射能恐怖症で極度の対人不振に陥りつつも、スタンドプレーだけは希求し続けたと思われる当時に首相(国難に身を挺して当たる英雄的リーダーと、自分では思っていたはずで、政治記者の質がよほど悪いらしい毎日新聞だけは、その行動を賛美していたようだ。しかし、有り体にいえば、浮き足立って専門外のことに口を出し、やたらと怒鳴って情報伝達を硬直化させ、混乱に混乱を重ねさせただけであることが、最近の調査で明らかになってきている。・・・もっとも、調査などしなくとも、冷静に当時の面付きや言動を見聞きしていれば、トチ狂っていることくらいわかったはずだと思う。ああした場合、近くにいる奴が、二、三発ぶん殴ればしゃんとしたかもしれないが、周囲はお育ちの良いエリートばかりで、「愛のムチ」的暴力を期待しうるのは、彼のがらの悪い女房【ファーストレディー!】くらいで、その婆さんが夫以上に不見識でトチ狂っていたようだから【酩酊してインタビューに答えるような、嗜みがあればやっちゃ場のババアでも避けるようなことを、平然となされる実に庶民的な方であった】、どうしようもなかったのかもしれない)が、静岡県の浜岡原子力発電所を無理やり停止させた昨年の5月上旬には、他の原発の危険性に気づいたはずである。ところが、自分の管内に電力を供給してくれている原発の停止を、浜岡同様の処置を求めず、その電力で大した節電をせずとも夏を乗り切り、むしろ、電力の供給不安がないと位置づけ、大阪に首都機能を引き受けるようなことを主張していたのではなかったか。もし、論理的整合性を意識した上で、その主張を行うのであれば、原発維持(推進ではない)は必須のはずである。
私は、キッキ首相が、自分のオツムがまっ先に危機に陥っていたアレが、浜岡を停止させた時、他の原発求めるように主張した、全体から見ればごく一部の反原発運動の人たちの意見を、実にもっともだと思った。もちろん同意はしないが、今でも、その主張を貫いている人たちには、敬意を表する。ところが、より多くの国民も為政者も、事故の前から予定されていた定期検査に入るまで、原子力発電所の稼働を当然のことのように黙過してきたのである。その人々、事故後ですら原子力発電の恩恵を被り続け人たちが、予定の手順で再開することに対して、何を反対できるのであろうか?福島に対する東京同様の電力消費地の分際であれば、何を意見がましいことを口にすることさえ、厚顔無恥と言えよう。
昨年夏、暑さの中を節電で喘いでいた首都圏では、日本人的ないじらしさで、ずいぶんと節電に励んだものだった。関西電力も、6月10日、「夏の電力供給不足による停電を回避するために、同社管内のすべての利用者に対し、7月1日から9月22日の間、平日9時から20時の時間帯に、昨夏比で15%程度の節電への協力を呼びかけ」たのだが(記事)、さて、ご記憶になっているだろうか?15%は原発停止中の東京電力や東北電力並みの厳しい数値で、原子力発電所がいくつも稼働し続けていた関西電力管内で、そこまで必要性があるのか疑問だが、、『情緒的』には、同じ苦しみを味わっても良かったかもしれない。しかし、この時、大阪府知事であった橋下氏は、即座にそこまでの節電は必要ないと決めつけたのである(ニュース映像)そして、過度な節電要請は、原発を止めると電力不足が生じるとの、電力会社側の脅迫と考えられていたようだ。確かに、情緒的な自粛よりも、余剰があるなら普通に使用し、電力不足を懸念する東日本の企業を受け入れるなど、関西圏の景気を良くした方が、被災地の助けになるという考えは、それはそれで正論のはずで、私も個人的にはその意見に賛成だ。しかし、この場合、橋下氏は稼働中の原発の継続を支持し、それを前提として、節電は必要ない、との意見と見なされて不思議はないだろう。原発に反対なら、ただちに稼働中の原発も停止し、より以上の節電を、昨夏に実施すべきだったのである(立地自治体ですら無いので、言ってもまるで影響力がないことを見越した上で、無責任ながら、少なくとも口先ではそう言えば良かった)。
昨夏の節電、結果どうなったか、電力研究所の報告論文「事業所アンケート調査に基づく2011年夏の節電実態」を見ると、ピーク電力削減率では東北や東京電力管内が15%以上、東京電力は18%にまで達している。それに比較すると他地域はいずれも低調だが、それでも、関西電力管内は8~11%削減され、かなり危険な時もあったようだが、需要超過で大停電が発生するような事態とはならなかった。
つまり、15%削減しなくても何とかなったので、関電は過大な要請をしたことになる。そして、それが橋下氏には成功体験になってしまったかもしれない。しかし、それは口をとんがらせた無責任な書生っぽの発想で、責任のある為政者ならば、15%削減は難しく、ギリギリで乗り越えられたものとして、今後の対策を万全にする努力をこそ必要と認識すべきだったのではあるまいか。ところが、その後どうなったかと言えば、昨年は稼働していた関西電力管内の原子力発電所が次々と定期検査などで停止し、現在発電量ゼロ。赤ん坊が考えても昨夏より危険な電力供給不足状態となってしまった。昨夏は「福井県の美浜・高浜・大飯原子力発電所の一部が定期点検中」だったが、今年は『全部』なのである。
この後に及んで、「夏だけ稼働させたら・・・」などと注文を付ける無知なご都合主義というのは、一体どのような面の皮で出来たものだろうか。発電が停っていようと原子力発電所には放射性物質が大量に残っていて、それは何ヶ月にわたって冷やし続けなければ溶解し始めるような物騒なものなのである。今年も夏だけ、来年も、再来年も、とその調子のご都合主義を重ねるなら、危険性に関して、稼働し続けるのと大差ないことくらい、理解できないものだろうか?
原発の危険性を絶対的なものとし、今の段階で全廃するのであれば、夏に電力が逼迫し、場合によっては大停電が起きて、さまざまな死者を出すことになろうと、不安定で不足がちの電力供給、もしくは輸入化石燃料に頼る限り高騰する以外にない電力料金のため、国内生産がままならない工場や事業所が、大量に海外に出て行くことは、覚悟しなければならない。ご家庭で、いくら節電に頑張ったところで、職場がなくなれば、節電どころか、節電する家を失うこともありえる。そうした事態に陥る可能性を、少し想像力をめぐらして考えねばならない。
「電力会社の儲けを考えている」人など、電力会社の中でさえごく一部かと思う。まして、「経済のことを優先させる」のは当たり前だろう。経済とは、無機質な物体とか一部の大企業が独占するものではなく、庶民の生活そのものなのである。『経国済民』(国を治め民衆を救うこと)などと四文字熟語を持ち出さずとも、大企業には、数多の下請け会社が存在し、関連会社や取引先は五万とあり、その会社員や従業員たちの給料からの支出で経済は回っている。そこらの定食屋のおばちゃんも、昼休みにAランチを食べに来る人々がいなくなれば、商売など成り立ちようがない。電力会社だの大企業の社員には、何を勘違いしたのか、高慢なものも多いようだが、それは個々人の資質であって(尊敬される人は、過去遺物に過ぎない学歴など忘れ、給料の額より中身の充実を目指しているはず)、大企業を庶民の敵対概念に位置づけることなど無理というものだ。
「国論を二分する問題で、早急な結論は・・・」などと主張する人がいるようだが、日本は自由民主主義を標榜する国家なので、たいてい国論は二分されるし、細かく見れば、三分も四分も・・・人の数だけ意見なければおかしい。皆同じ意見で、ほぼ国論は一致する状態の方が、よほど危険であろう。それでも、願望としてなら、現在の科学技術では完全に制御しかねる原子力発電には頼らず、他のより安全なエネルギーに代替させていきたいのが、国民の大多数が共有するところではなかろうか。経済的な影響など考えず即時撤廃するのか、徐々に切り替えていくのか、急進か漸進か、違いはそれだけとも言えよう。もちろん、原子力の平和利用を技術を継承発展させることを望む人がいるのも当たり前であり、それも見識だが、制御不能を見せつけられては、技術革新を起こさない限り、多くの賛同は得られまい。
急激な変革を、多くの人は夢想するものだが、ある程度安定した社会において、実際に望むのは漸進改革だと私は思う。原子力は大規模災害を引き起こしかねない存在だが、日本の原子力発電は、昨年の地球的規模の大地震が引き起こした千年に一度ともいわれる大津波をかぶるまで、40年余に渡って「安全神話」にあぐらをかけるくらいに、大事故とは無縁だったのも事実だ(特異な大天災の結果ではなく、どこでも起きることだと強調したい人のみが、津波ではなく自身の揺れの結果による事故と想像で主張する)。安全対策の不十分を黙過し続けた「原子力村」、過剰な電気料金を得ながら、十分な安全対策よりも、不必要な広告宣伝や学界などに資金を注ぎ込み、マスコミや学術団体に影響力を誇示した電力会社など、弁護の余地もないが、もはや彼らは昔の夢を追えない立場である。テレビをつけてご覧なさい。広告宣伝費が入らなくなった途端、電力会社を徹底的に避難しているマスコミを。金の切れ目が縁の切れ目、それだけの連中なのである。
暑い季節ではあるが、そろそろ冷静に考えたいものである。
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