時代性を深める連ドラ?

 NHKの朝の連ドラは見ないことにしている。しかし、寝坊したり、文鳥の世話に手間取ると、8時となっていて、家の年寄りが楽しみにしているそれが始まってしまう。従って、断片的には知っている。
 で、現在のそれは『カーネーション』という題で、仄聞するにファッションデザイナーの「コシノ三姉妹」のご母堂のお話だそうだ。舞台はだんじりで有名な大阪府は泉南の岸和田で、荒っぽいがテンポの良い関西弁の明るい雰囲気のドラマだ。
 その個人的にはどうでもよい連ドラに対しての記事を、最近立て続けに目にした。注目している人は、細かなことまで気になるらしく、1つは主人公の服装に関してのもの(産経新聞掲載の加持先生のコラム)、今1つは主題歌に関してのもの(ポストセブンの記事)であった。そして、今朝、見る羽目になったので、2つの記事を紹介しておく。

 さて、「洋服を広めようとする主人公自身は」「自らが洋服姿であるべきなのに」「ミシンで洋服を仕立てる作業中、和服のそれも襷掛(たすきが)け姿でガンバッテいる」のはおかしいとのご指摘だが、これはどうだろう?当時は女性の普段着は和服で、洋服はせいぜいおしゃれ着の位置づけのはずだ。従って、手内職を行うのに洋服を着ていたら、そのほうが奇異なのではなかろうか。
 『和装洋裁』、さて、何か違和感があるだろうか?それでは、現在和服の縫製をされている方々は、和服を身に付けて作業しているだろうか?もしくはしなければならないであろうか?
 もしかしたら、「針子さん」や「縫い子さん」(縫製を仕事とする女性のこと)の作業着としてはともかく、お店で洋服を売るのであれば、自らも洋服を身に付けるのが当たり前と思われるかもしれない。しかし、それは現代的な感覚だろう。当時の感覚では、「売り子さん」も和服にかっぽう着姿が普通であったはずで、もし洋服を着てお客さんに応対するとなれば、今で言えば「高級ブティック」といった印象を与え、庶民が近づきにくくなってしまうはずである。つまり、時代考証的には、むしろ、あれで正しい、と言わねばならない。
 なお、加持先生の話は、喫緊のTPP交渉に及び、それを関税自主権の放棄と見なされている。しかし、これも首肯しかねる。言わずもがなのことながら、関税自主権の問題は、相手に自主権があって、こちらにはないという不平等性にあり、どちらも関税を撤廃することを前提とする、善し悪しは別にして制度的には平等には相違ない貿易自由化とは、全く性質を異にする話である。たとえ自由化したところで、国家主権を放棄するわけではないので、嫌なら、いつでも国家の権利として関税自主権を行使し、関税障壁を高くして鎖国化するのも勝手である。不平等条約の下で、片務的な不利を被った歴史を同一視など出来るはずがない。
 「TPPでバラ色の未来!」といった主張も眉唾ながら、反対意見があまりにもチープ(日本語として「安易」としたほうが良いかもしれないが、音感として「チープ」がふさわしい)なのは、嘆かわしいところだ。産経新聞はTPP推進を論調とするので、反対論はわざわざ底浅いものを掲載しているのではないかと邪推したくなる。
 釈迦に説法ながら、『温故知新』は、たんに似た現象を歴史から引っ張り出し、現代の感覚で手前勝手な付会をするものではなく、その時代状況に照らして正確に捉えた上で、現代の事象の比較対照することで新たな展望を開く、ことだ理解している。過去の出来事を参考にする際は、今現在の状況と似たうわべを強調するのではなく、むしろ細かく異なる面に注目しなければ、未来につながる教訓など得られないだろう。

 主題歌の方は、椎名林檎さんのそれが、ドラマにそぐわず違和感を感じるという意見に対し、それを根拠のない意見とし、「主題歌もレトロ風の不思議な曲調」で「大正~昭和の時代、大阪・岸和田の商店街」という「ドラマ空間」にマッチしている、とする見解となっている。
 しかし、一度でも件のドラマを見れば「そぐわない」と感じない方が変だ。「バイオリンなどのストリングス、ハープの優雅な音をバックに、たゆたうような、ゆったりとしたワルツ調」の歌に前後するドラマが、泉南のだんじりパワー炸裂のアップテンポな会話に埋めつくされているのである。これがピッタリと合うと感じられたら、よほど変わった感覚だろう。
 確かに、大正昭和の戦間期(第1次と第2次の世界大戦の間の時期)は、自由な雰囲気と退廃的な雰囲気を持つ独特な時代で、その時代性は、椎名さんの歌に合っているようにも思える。しかし、岸和田に限ったことではないが、いつの時代も庶民は、あくまでもアップテンポに騒々しく日々を送っているのが真実だろう。・・・つまり、歴史的観点から見た時代の雰囲気を醸し出す曲と、いつに変わらぬ(歴史も時代性もヘチマもない)庶民の生活感とのミスマッチこそが、それが制作側の狙いなのかは関知するところでないが、『ある』のである。従って、『ない』、違和感を感じない、と主張されても、首肯することなど出来ないのである。
 その明確に存在する違和感を良しとするか、悪しとするかは、それぞれの感覚次第なので、これは人によって異なって当然だ。「不思議な主題歌が、より一層ファンタジー感覚を際立たせ、物語世界を膨らます効果を発揮してもいる」という受け取り方もあれば、あんなもの毎朝見ている人は、そこまでいろいろ考えないだろうから、アップテンポなドラマにワルツは合わないと感じるだけであって当然なのである。これが、特に難しく考えないとわからない話だろうか?つまらぬことを、時間をかけて小難しく考えるから楽しいとも言えようか・・・。

 案外、さまざまに考えさせられるドラマのようだ。

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