以前、8月28日に毎日新聞に掲載された、精神科医の斎藤環さんのコラムを紹介しましたが、同コラムの内容について、立命館大学教授の加地伸行先生が、9月30日の産経新聞において批判されていたので、遅ればせながら紹介し、備忘のため私見を述べたいと思います。
[加地先生のコラムからの引用]
大震災の報道後、期せずして日本全国の人々から、まごころをこめた素直な善意が膨大な義援金となったのである。その心は今もなお生きている。その〈素直な善意の義援金〉を足蹴(あしげ)にして、「後腐れのない善意の義援金」とするとき、義援金を続ける方々は、どう思うであろうか。心ないことばである。
この震災の惨禍に対し、被災した人たちに対して貢献したことはと言えば、まさに義援(義捐)金のみと言って良い私ですが、毎日新聞に掲載された斎藤さんのコラムに対し、加地先生のように心無い言葉と怒りは覚えませんでした。それどころか、、当然至極でごもっともと喝采し、現在もその考えを寸毫も変わりません。
加地先生のご卓見には([例]野田政権についてのコラム)、常々感服しているところですが、この件についてはご意見に賛同しかねるのです。なぜなら、漢文に精通した大家である加地先生は、『後腐れ』という言葉を「縁切れ」の意味とされますが、漢文の素養などない無教養な現代日本人である私にとっての『後腐れ』の意味は、「物事がすんだあとでもすっきりと解決せず、問題があとを引くこと」と辞書(大辞泉)」にあるものでしかないからです。つまり、おそらくは教養の面で同類の一般現代日本人であろう斎藤さんのコラムに共感することができたのは、被災地との関わりを腐れ縁として、後にその縁を残さないように、パッパと済まして知らぬ顔を決め込むといった負のニュアンスを感じたからではなく、関わることで被災地にかえって迷惑を及ぼすような腐れ縁とはならずに、気持ちを示す手段として義援金は適している、といったニュアンスとして捉えてのことであり、そちらの解釈が普通だと思えるので、批判には当たらないと思うのです。
実際、斎藤さんのコラムの前提となる、立命館大学の所在する京都で起きてしまった大文字焼きの件にせよ、その後、日進というところの打ち上げ花火の件にせよ(「検査する」?花火玉を?数年寝かして出来上がる爆発物だとの認識もないのだろうか・・・)、善意の『縁』『絆」のためとして自ら手を差し伸べながら、些細な理由(基本的には『漠然とした不安』のみ)で相手の手を払いのけ、かえって被災地を傷つけてしまいました。まさに、腐っているのは、手を差しのべる側の覚悟の欠如と見なされてしまう事態で、もし、金銭だけなら覚悟のほどは計られずに済み、相手を傷つけることもなかったはずだったのは、間違いの無いところだと思います。
「まごころをこめた素直な善意が膨大な義援金となった」のはそのとおりですが、金は所詮金だけのこととも言えます。例えば1991年に起きた湾岸戦争の際、日本はクウェートの独立を回復するアメリカなどの多国籍軍の戦費として、約130億ドル、当時の換算では1兆7000億円以上の巨額な金銭を提供しました。ところが、独立を回復したクウェート政府から感謝されている国に入らなかったため、、戦闘員を贈らず金だけで済ませたからだと、国内で問題視されたことがありました。そもそも、実際に日本が戦費を提供したのはほとんどアメリカに対してだったので、クウェート政府から直接感謝される形態になっていなかっただけだと今の私なら分別しますが、当時政府自民党の幹事長であった今話題の小沢一郎氏を含めたナイーブな日本人の多くは、お金だけでは感謝されず、仲間としても認めてもらえない、と感じ取ってしまい、その後大きなトラウマとなりました。
税金が血税と呼ばれるように、国の予算は国民が日々に汗水たらして働いた結果であり、それがゆえに貴重で、それを提供されながら感謝されないとしたら、それは感謝しない方がおかしいと考えても不思議はありません。しかしながら、当時の国家予算、一般会計だけでも40兆円を超えていた日本という経済大国にとっても、拠出した金額はその5パーセントに近いので、決して少ない額とは言えなかったと思います。しかし、一般会計以上の特別会計が存在する我が国では、国家の運営に支障をきたすほどの拠出規模ではなかったことも確かです。結果、身銭を削って助けたという実感を当時の日本人は持てず、後ろめたい気持ちになったものと、私は思います。
『金額の問題ではなく気持ちの問題』とは、巷間よく用いられる言い回しですが、下世話の現実に即して割り切れば、収入額に見合っているかそれ以上に出しているかでしょう。例えば、年収1億円の人間が地区のお祭りのために10万円寄付しても、「お付き合い」として大して感謝はされないかもしれませんが、年収100万円の人が5万円寄付すれば、実際の額面は10万円の半分ですが、「金額の問題ではなく気持ちの問題」となるはずです。1億円の年収の人にとっての10万円は、収入の0.1パーセントに過ぎないのに対し、100万円の人にとっての1万円は、収入の5パーセントに達するので、まさに身銭を切って「気持ち」を示していると見なされるわけです。
湾岸戦争の際、5パーセントも出していながら後ろめたく感じてしまった日本人は、今回の義援金でも感覚は大して変わらないように思います。またイヤラシイ話になってしまいますが、「まごころをこめた素直な善意」と自分自身で納得できるか否かは(この場合寄付の多寡は相手にはわからないので、あくまでも寄付する側の問題)、それぞれの経済状態に応じて、身銭を切っている感覚が持てる額になっているかどうか以外にはないと思われます。例えば、年収400万円の人なら、その0.1パーセントは4千円、1パーセントは4万円、5パーセントは20万円です。
個人的には、1パーセント程度しか「素直な善意の義援金」として拠出できませんでしたが、それでは身銭を切っているほどの感覚はなく、ボランティア活動をされていたり、より多くの身銭を切っていると思われる人たちに対して、後ろめたい気持ちを持ち続けています。やはり、普通の庶民に出来ることは、義援金を送る程度、それも自分の生活に支障の無い程度に過ぎないものと思うのですが、どうでしょうか?その程度の貢献と自覚しているので、それで多大に感謝されても当惑するでしょうし、「後腐れのない善意の義援金」の位置づけが、私としてはむしろ座り良いのです。
大義でも義務でも義理でもなく、些細な個人が金銭で示す『義』とは、それで良いのではないかと思います。よりむしろ、その日常での行いにおいて、被災地を差別するような『不義』により、義を棄捐することのないように、戒めたいものです。
コメント