ミカンがあれば他はいらないようなスミ
愛知県の日進市というところの花火大会で、福島県産の花火を打ち上げようとしたところ、「汚染された花火を使うな」との愚かなクレームを少々受け、中止してしまったそうです。京都の大文字焼きと同じで、低能なひとにぎりの住民に対し、魯鈍な地方行政府の事なかれの対応で、市全体が『バカ』を晒すことになったのは、残念なことでした(どこでも起こりうることで、イメージダウンは市全体に及ぶので、多くの良識のある市民にとっては災難)。
魯鈍で、日頃は市民からまともな提案を受けても反応しないくせに、こういった時だけ対応が早いというのは、単に他人事だからではないかと思えます。そこで生活しそこで生産されたものを排除するということは、そこで生活する人たちの生活手段を奪うのと同じです。生活手段を奪われては、生きていけません。産地差別を軽々に出来るのは、思いやりの欠片もないだけです。醜く汚く、残念なことです。
こうした風潮に対しては、断固として戦うべきですが(同じ県でも地域により全く事情が異なり、同じ地域でも栽培方法で異なり、海産物に至っては沖合から離れれば、水揚げ漁港の所在地を示すだけの「何県産」などという表記はほとんど意味をなさない)、多くは事なかれのその場しのぎに過ぎ(成田山新勝寺のお焚き上げは、放射能検査を行い不検出なので実行することになったようですが、検査すること自体があってはならない非礼であり不義になると思う。今の坊主どもというより寺の組織には、無思慮で非科学的なうえに、情緒的に思いやりに欠け自分本位な「ホウシャノーエンガチョ」の風潮に立ち向かうだけの気概がないものと思える)、なぜか情緒的な行動ばかりの護憲団体やら政党が、反原発運動を始めたり、気持ちの悪い風潮が多く見られ、うんざりさせられます。ノーリスクでなければ反対とするような市民団体の反対運動に対する行政側の事なかれの対応が、原発の安全神話につながり(少しでも危険があると説明すると反対されるので、絶対安全と唱え、事故を想定した訓練をすると、やはり危険があるのだと指摘されるので、訓練すらしなかった)、今回の事故対応での円滑な早期避難を妨げたと、通常の感覚の人なら分かっているはずですが、何とも困ったものです。
リスクの証明が難しい程度の話では、産地などいちいち気にする方が神経をすり減らす。精神的なストレスが健康に悪影響を及ぼす繊細な現代人では、長生きしたければ気にしない方が良い。
が、ミカンは愛媛県産ばかりになっている。特に他意はない。安くてうまいからである(紀伊半島の和歌山県もミカンの大産地でこちらのミカンも頂いている。山間部の山崩れによる自然ダムの決壊が心配されるので、そちらに向かってもらっても困る。避けがたいなら、せめてさっさと通り過ぎてもらいたい)。
今夜は、今シーズン最後になるかもしれない産地不明のトウモロコシ(表示されていたかもしれないが見ていない)があったので、ミカンは休みにしようと思ったが、柑橘大好きのスミのために用意した。すると、スミはトウモロコシには目もくれず、ミカンを食べてくれた。これは、やはり欠かせない。
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