「こころ」には覚悟

 毎日新聞で、斎藤環という方のコラムを見かけましたので、ご紹介しておきます。http://mainichi.jp/select/opinion/jidainokaze/news/20110828ddm002070083000c.html
 
 理屈のない「ケガレ」として差別するのではなく、科学的な冷静さを持って放射能汚染を把握するようにすべきだという趣旨だと思われ、同感です。「覚悟と根気なしに「こころ」にかかわるべきではない。後腐れのない善意を発揮したい人たち向けには、「義援金」という方法がある」、まったくもってそのとおりです!
 ちょっとした勘違いとしては、「送り火をおこなう僧侶たち」と、京都五山の送り火を宗教行事とされている点でしょうか。京都五山の送り火は、特定のお寺の宗教行事ではなく、基本的には地域社会の伝統行事で、それだけに下世話な表現で言えば、『根性がたりなかった』ものと思われます。本来的には地域ごとの見栄の張合いに、見ている側が何となく持っている日本人的な情緒の上での信仰心が加わり、伝統行事として根付いてきたものではありますが、今回の事件で情緒的な奥行きを持たせてきた何となくの宗教性がはげ落ちてしまい、見る人によっては、たんなるイルミネーションにしか見えなくなってしまったことは、返す返すも残念なことでした。
 なお、仏教の修行者である坊主は、「捨身」が表看板なので、「ケガレ」ていたら一緒にまみれねばならない因果な商売です。俗に「ケガレ」を扱う仏教に対し、「ハレ」を扱う神道と言われており(葬式はお寺、結婚式は神社、といった使い分けです)、「ケガレ」を忌み嫌い避けるのは神道的な発想と言えるでしょう。
 21世紀に生きる先進国日本の国民としては、客観的科学的冷静に考え、迷信で「エンガチョ」をせず、許容できる「ケガレ」なら、少しは共有する覚悟(「こころ」であり、おそらくは『絆』)が必要だと思います。

 

【補足】
 京都の名誉のために、「こころ」ある記事も紹介しておきます。清水寺の仏像を、陸前高田の松で制作するそうです。功徳のある大日如来様になることでしょう。
http://www.asahi.com/national/update/0827/TKY201108270482.html

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