送り火として見たい大文字

 成田山新勝寺の対応については、冷静になって考えると、一部マスコミの誤解による報道があり、実際は粛々と行われるのみ、のような気がしています(宗教的倫理観ではそれ以外ないため)。したがって、同寺で責任のある立場にあるお坊さんが出てきて、妙な発言でもしない限り、気にしないことにしました。
 一方、京都の件については、腹立ち紛れに連日書いていたので、とりあえずの締めくくりをしておこうと思います。
 なお、五山のイルミネーション保存会の人たちは、地域のただの世話役であり、ようするに近所の町内会のおっちゃんたちと基本は一緒でしょうから、無知で妙な判断をしても、あまり責めるべきではないと思っています。むしろ、自分たちの起こしたことで大変な事態となり、良かれと思った結果が相手を傷つけ、自分たちも傷つき、どうして良いのかわからなくなっているものと、同情すべきでしょう。
 私がここで何を書いても、何の助けにもなりませんが、悪事は千里をかけるそうですし、何となく伝わっていく可能性もあるかもしれません。そもそも、私と同じような考え方の人は、それこそ五万と存在するのは明らかで、周囲にもいるはずのそういった人たちのアドバイスをしっかり受け止めて、イルミネーションを再び送り火として見られるように、ご努力いただければと思っています。

 まず経緯を振り返ってみましょう。

1、『被災地のために少しでも役に立ちたい』ので、大文字焼きの保存会が津波で倒れた松を送り火に用いることにする。
2、放射性物質を不安視する意見を受け、放射性物質の検査を行う。
3、不検出であったが、不安感が残るので中止する。
4、「セシウムゼロ」、つまり検査してセシウムが検出された場合は用いないことを前提に、京都市が地元保存会と調整を行い、新たに薪を取り寄せる。
5、取り寄せた薪の表皮部分から放射性セシウムが検出されたとして、薪の使用を断念する旨、記者会見で公表する。

 これも再三再四の繰り返しとなり恐縮ですが、それぞれの対応についての感想は以下のようになります。
1について
 今回の天災が原発事故を伴っていなければ、誰も文句を言わなかったでしょう。
2について
 陸前高田市が事故発生地から180キロ、つまり京都を起点に見れば、紀伊半島の南方沖といった、生活実感からすれば[遥か彼方と言えるくらいに離れている事実]を理解していれば、いかに無知で事故後になって放射能過敏症になっていたとしても、感情的な反対はできないはずです。つまり、「事故発生地も東北の被災地の一部なので近いはず」といった、ごく一部の幼稚で愚かにすぎる思い込みでの反対意見に過ぎませんから、それに引きずられた検査の実行は、軽率にすぎる行動と言えます。
 また、そもそも、現地で伐採し加工し、多くの人が寄せ書きまでしているものを検査するなど、それ自体が失礼以上に無礼です。その場のクレーム逃れのために、善意の人々の気持ちを踏みにじる非常識な検査を行なえるのは、それを決定した人に「被災地は汚染されている可能性があるから検査されて当然」といった、無知に基づく差別が内在していたとする以外に、理由が思い浮かびません。 
3について
 不検出でも中止をするのなら、検査を行う意味がありません。『被災地のために少しでも役に立ちたい』といった崇高な信念があれば、このような決定は有り得ません。始めから及び腰の無責任な姿勢であったと指弾せざるを得ない、非論理的で最悪な判断でした。
4について
 最悪な判断によって非難が殺到したため、市当局が間に入ったものと思われます。それは良かったのですが、市当局に「セシウムゼロ」を当たり前とする、致命的な認識不足があったのはどうしたことでしょうか。残念ながら放射性物質の拡散は濃淡を別にして有無に限れば全国規模であり、京都市でも、4月22日に地元紙が報じているように、放射性物質であるセシウム134が、京都市伏見区の調査ポイントで検出されています。半減期の長いセシウム137に至っては、核実験などの影響で、いまだに、日本どころか全世界の土壌で検出されており、当然京都市も例外ではありません。このような放射性物質の検査を行なっているのが、京都『府』であって京都『市』ではないとしても、地方行政を担う立場としてあまりにも、放射性物質について無知であったと言わざるを得ません。
http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20110422000070
5について
 無知のため検出されるはずがないと思い込み、ごくわずか、食べても問題にならないどころか、現に市場に出回っている食品に問題なく含まれている程度の、極々微量の放射性セシウムの検出結果に驚き、自分たちが中止する根拠になり得ると勝手な錯覚をし、あたかもそれが特別なことのような印象を、全国各地の人々に与えてしまいました。これは、途方もない過失です。
 
 京都側、保存会と市当局の放射性物質に対する無知により、問題にならないはずのものが問題視され、勝手に騒ぎを拡大させたのが、今回の一連の流れです。当事者たちは「セシウムが検出されたから仕方ない」などと、未だに思っているとしたら、それは問題の本質を理解していないことになります。そもそも疑うほうが、人間同士の付き合いの上でも、科学的な常識の上でも、『おかしい』のです。
 京都で送り火として用いるとして被災地の人々の気持ちを書いてもらった木材は現地で迎え火として燃やし、京都の木材に写文したものを迎え火に用い、それの「消し炭をお持ちしました!」、などと言われて、「おととい来やがれ!」と蹴飛ばさないのは、もともと寡黙で辛抱強く、さらに今回の震災の甚大な被害で時間的にも精神的にも余裕の持ちようがない、被災地の人々だけではないでしょうか?何か罪滅しをしなければとの気持ちは理解できますが、結局燃やさず差別したままで、動き回られる方が鬱陶しいことになってしまいます。
 この際、余計なことをせず、頬かむりを決め込み、来年以降もイルミネーションの存続に心胆を砕かれるのも、ひとつの見識です。ただ、この場合、観光客や低能の市民の一部は何も考えず喜ぶでしょうが、分別のある京都の人々の多くは、私同様もしくはそれ以上にわだかまりを持ち続けることになるのも明らかだと思います。「セシウム」などという逃げ口上(になると無知で信じていただけ)を抜きにすれば、差別し排除してしまっただけであり、その罪悪感があれば、先祖や亡くなった人々を、分け隔てなくあの世へのお送りするために灯すなどといった、宗教的な意識を背景とした情緒などかき消されてしまいます。そして残されるのは、観光イベントとしては重要に違いない、伝統的に続いている季節の風物詩としての光装飾です。
 それでも、何とか汚名を返上し名誉の挽回を期すなら・・・。とりあえず、保存会の人たちは、放射性物質についての正しい知識を学んで、自分たちのこれまで持っていた無知を恥じ、その無知に基づいて行動していた中に差別意識がなかったか自省し、来年は東北産の薪を迎え火に用いる、くらいではないでしょうか。公の機関としてあってはならない無知に基づく軽率により、混乱を拡大させた市長をはじめとする市当局は、自分たちが引き起こしてしまった風評被害(被災地は180キロも離れていても、セシウム汚染を疑うべきとしてしまったこと)について、会見や声明で繰り返し繰り返し可能な限り払拭に努め、自らを含めた京都市民に正しい知識の啓蒙を行うこと、くらいではないかと思います。
 日ごろ気づかないで過ごしていた、己の無知と差別感情に向き合うというのは、実に嫌なことには違いないです。しかし、これは抜きにした反省や出直しは有り得ないでしょう。この際、「ガンバロー、京都」です。他の地域も、同様の事態を招かないように、他山の石としたいところです。

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