『絆』って何ですか?

 昨夜京都で行われた、イルミネーションの記事からです。http://sankei.jp.msn.com/life/news/110816/trd11081622030016-n1.htm

 個人的に居たたまれないお気持ちは分かりますが、今回の京都側の行動は、陸前高田を不当に厄介もの扱いし、災厄そのものになったので、「厄除けなどの御利益があるとされる送り火の消し炭を持って陸前高田市を訪れ」ても、疫病神が来て詫びるような迷惑行為になるだけのように思います。応対に労力を割かせてしまうのは申し訳ないので、地元で身内の反省会を繰り返されたほうが良いでしょう。
 今回の過失は重大に過ぎますが、その根本は、誤った認識に基づいて検査を行なったことにあり、より本質的には、検査を当然とするその心根にあります。差別する気持ちがなければ、検査などを行う発想すら出ないはずなのです。訳が分からぬまま傷つけた相手に許しを請うよりも、自分たちの心に巣食う無知な差別感情に気づき、まずは、それと真摯に向き合われた方が良いかと思います(セシウムが出たから仕方がなかった、ではない。それを疑ったのがすでに差別)。

 3月11日の震災後、被災地への支援の手は、日本国内のみでなく外国からも差し伸べられ、被災された方々ばかりでなく、日本人のほとんどは、支えてくれる人たちに『絆』を感じ、支え支え合う『絆』の重要性が盛んに説かれるようになりました。
 私は根本的に大都市の個人主義者なので、『絆』とかそういったものは苦手です。他人の世話にはならないように心がけますし、他人から見れば親切な行動を自分がとっても、恩に着て貰われては迷惑なくらいの感覚で生きています。しかしながら、『絆』というのは、互いの関係に誠意がなければ成り立ちようがないものだとは、承知しています。『絆』とは、辞書的には「人と人との離れがたい結びつき」のことです。そして誠意とは、「私利・私欲を離れて他人のために尽くす気持ち、まごころ」のことです。隣の家のことに関与するのもまっぴらなタイプの人間には、うっとうしいではありませんか?
 さて、被災地の薪に対して、セシウムの存在を疑い、それが検出されたら使用しない、などという態度のどのあたりに、『絆』を感じたらよろしいでしょうか?哀れな個人主義者に、ご説明いただきたいものです。
 苦しんでいる相手のために身を捨ててでも援助しようとする覚悟があって初めて成り立つはずの『絆』、お互い同士が同質の存在として共鳴する真心、そのようなものを、一方を差別し排除する態度をとりながら求めるなど、そもそもおかしな話ではないでしょうか?相手が泥をかぶっているなら一緒に泥をかぶってこそ、初めて、相手はその人の真剣さ、自分に対する誠意を感じ取ることが出来、互いの『絆』を深め合うことが出来るはずです。口先で「絆」と言っても、同じ口で「セシウムあるからイヤ~!」では、相手との『絆』など成り立つわけがありません。鬱陶しいので「絆」「絆」と誠意のないうわべの言葉を連呼せず、黙ってハシタ金でも義捐金として寄付していたほうがはるかにマシかと思います。
 
 送り火にせよ護摩壇での供養にせよ、その地の薪を使用して被災者の気持ちを少しでも和らげたいと思ったのなら、何がどうしようと使用すれば良いだけです。「野焼きの基準がないから」、燃やしても法的に問題ないだけです。そもそも、『絆』で被災地の人々を支えるのが本意なら、何がどうしようと使用するしかなく、法に規定されてもいない検査を自主的に行うなど訳がわかりません。何か不都合なものが検出されても、『絆』を守るためには燃やす以外ないのですから、検査するだけ労力と機材の無駄となり、自分の誠意を傷つけ失うだけです。そもそも検査して排除するような気持ちなら、被災地のことを想って『絆』を深めたいなどといった綺麗事を並べるべきではありません。一緒に泥をかぶる覚悟もない者が、親友づらして付きまとうなど、相手にとっては迷惑なだけです。
 人体への影響が心配されるくらいのセシウムを含むとしても、それを燃やすべきなら、私はみんなと一緒にその灰を浴びたいですね。私の場合は、それで『絆』を得ようとか深めようとか人間同士の結びつきを感じて感動を共にしたいとかいったものではなく、他に浴びねばならない人がそこにいるのに、自分だけ避けるような卑怯未練な振る舞いなどしたら、まず間違いなくその後、少なくとも精神的に生きていけなくなるので、その場にいればそうするだけですが、とにかく、同じことをしなければ仲間とは認められないことくらいは、誰にでもわかる話です。苦楽を共にしてこその『絆』です。
 また脱線になりますが、どこぞ未開の社会に学術調査に入った際、その地の人々と親しくなるには、まずはその地の人々が出してくれる「ごちそう」を余さずしっかり食べることです。自分の社会の価値観で、イモムシは嫌だの、ネズミは食えないだの、そういった態度を示す者を、それらを「ごちそう」とする相手が仲間として受け入れてくれるはずがありません。自分たちとは異質な異邦人、決して『絆』など結び得ない者と認識され、その社会の本質など理解できません。

 苦楽の苦が大きいほど、それを一緒に乗り越えた仲間の『絆』は深まるはずなので、その点残念なことに、今回のケースは燃やしたところで人体への影響はゼロです。専門家は本当に全くありえないと科学的に証明できない限り、可能性をゼロとは言えませんが(科学的に可能性がゼロのことなどまず有り得ない)、当然私は放射線の専門家といった社会的立場を有さないので、ほとんど影響が考えられなければゼロとして生活します。その意味において、確実に健康への影響はゼロです。あんなものを燃やすのに、いちいちピーピー言っていたら、家の台所のグリルで魚を焦がすなど犯罪行為になってしまいますから、そのように考えるしかありません。何しろ、焦がしたそいつを食卓に持っていき、大根おろしを添えて醤油をぶっかけ食べて生活しているのです。そのような生活をしておきながら、屋外で燃やしてちょっとその灰を浴びたら「ホウシャノーがぁ!」などと、近所迷惑も考えず無駄吠えできるほど、多少残念なことに、まだ脳がゆるんではいないのです。
 今回、薪の表皮部分から検出されたのは、1kg1130ベクレルだったそうで、それに対する検証をせずに「検出された」と報道するマスコミばかりでしたが(目先のことを機械的に伝えるばかりで、それがどういった意味を持ち、どういった影響を与えるかの考察をするゆとりがない。もしくはその感性も能力もない)、表皮以外は検出されていないので、薪全体の質量の十分の一が表皮だとすれば、その薪全体から検出されたのは1kg113ベクレル程度、と考えられます(表皮とそれ以外を分けたのは、何か検査の際に勘違いした結果と思われる)。113ベクレルという数値は、普通の食べ物に許されている基準値1kg500ベクレルどころか、それより厳しい飲料水や牛乳の200ベクレルよりも少ない超微量です。
 国の定めた基準値をどう思うかはそれぞれですが(信用できないなら好きな外国にでも移住するしかありません)、とにかくその基準値以内なら問題とされずに市場に出回っているのは確かです(濃淡を気にする必要がないレベルとして定められているのが基準値ですから、勝手な妄想で産地差別をして、自己満足したところでほぼ無意味)。事故現場から200キロ程度離れた千葉など首都周辺でも、降り注いだ放射性セシウムが雨などで「除染」された結果、下水管を通って浄水場の汚泥に蓄積する、ごく当たり前の現象が起きているように、残念ながら、その程度の距離では屋外のものに多少のセシウムが蓄積されないほうがおかしい状態です。それは濃淡の差だけで、西日本であっても免れることはできません。それが現実です。従って、「セシウムゼロ」を求めるなど、現状を認識しない無理難題以外の何物でもありません。無理難題を相手に求めるなど、意識していない過失であっても、それは十分に軽率と言わねばならず、己らの無知を猛省する必要があるのです。

 さて、原発事故現場からほとんど同距離にある地域(陸前高田市と成田市は事故発生地からともに180~190キロ程度の距離)の薪を、成田山新勝寺がどのように扱うのか、これまでの行為による『絆』の真贋が、問われています。

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