「みんなセシウムさん」まとめ

 岩手県陸前高田市の松は、千葉県の成田山新勝寺で供養されることになり、それはそれで良かったのですが(毎日新聞記事↓)、このままでは、「みんな良かったと思えるよう、しこりがないように」なるはずがありません。
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110815k0000e040041000c.html
 被災地の人たちの気持ちを騒がせるのは、不本意ではありますが、放射能汚染について一部の無知にはびこっていた迷信が、表立って「常識」顔をしているのに対し、秋の収穫時期が近づく現在、今後の産地差別を防ぐため、徹底的にその矛盾を明らかする機会にすべきだと思います。京都もどこも「みんなセシウムさん」だ、といった、ごくありふれた事実認識を、地方行政府の担当者を含む、まともな日本人すべてが共有してもらいたいところです。

 誰にも悪意はなかったはずです。津波で倒れた松を京都五山の送り火に用いる、実に良い話です。最高の発案と言えます。実現に向けて努力された保存会その他の人々も、善意そのものであったはずです。
 しかし、結果は惨憺たるものになってしまいました。今年の五山の送り火は、騒動の余韻を残す白々しいものになってしまい、それは今年に限った話ではなく、この問題の経緯を知る人の心に、半減期の長い放射性物質のごとき執拗さで、半永久的に残留することになってしまうはずです。個人的にも、あの送り火を見て、苦々しい気持ちにさせられようとは思ってもみませんでしたが、もはやそれが現実なのです。
 
 他山の石とすべく、京都の主催者側の判断・行動の問題点を列挙しましょう(個人個人に無知を自覚し反省して欲しいですが、間違った「常識」がはびこっている以上、個人攻撃ができる問題ではないです。念のため)。

1、事故現場から180キロも離れた陸前高田を汚染危険地域と思い込み、放射性セシウムが検出されたら使用しないつもりであった。
2、検査した結果、検出されなかったにもかかわらず、一部の無知蒙昧な住民の意見に振り回され、被災民が寄せ書きまでしているものを使用しなかった。
3、再度取り寄せたものに対して、再び作為的な検査を行なった。
4、正常の範囲内でしかない極微量のセシウムが検出されたことを特別なことのように発表し、再び使用中止とした。

 以前、距離感は自分の住んでいる地点に当てはめないと、実感として捉えられないといった話を書きました。その時は、200キロ以上も離れた東京に住み、外交官特権を持つ公務に在りながら、関西方面に遁走したどこぞの先進国大使館員のような者が散見されたからですが、それはともかく、京都から180キロと言ったらどの辺りか、この主催者たちにはお分かりでしょうか?ざっと言えば、西は岡山県倉敷市近辺、東は愛知県の浜名湖のさらに東、北は石川県金沢市近辺、南は紀伊半島南端潮岬のさらに沖合になります。60キロと離れていない若狭湾に「原発銀座」が所在するくらいに原子力発電に理解があったはずの京都市の住民が、原発から180キロの遥か彼方の倒木に対し、放射性物質の残留を疑うなど、まったく摩訶不思議、天魔の所業というも愚か、といった感じです。
 事故が起きた原発は東北地方にあるようだから、東北のものはみな怪しい。こうした地理感覚のまるで欠如した大雑把で幼稚な発想は、それ自体が風評被害に結びつきます。平安時代の京雀のごとき幼稚な閉鎖性を丸出しにして、安易に他を排除する行動をとるなど、京都大学の内海博司名誉教授(ご専門は放射線生物学)が「京都の名誉をおとしめる」行為と論断されているように、現代の良識ある京都の人たちが、最も忌み嫌っていることのはずです。
 180キロも離れているところのセシウムを気にする方が異常であり、まして人類が核爆弾を製造し使用して以来、セシウムを含まない土壌など、おそらく地球上に存在しない程度の知識があれば、無理難題で被災者を苦しめる悪意を感じさせる行為など出来ないはずです。
 ところが呆れたことに、京都側の主催者の「常識」は、「セシウムが検出されたら使用しない」なのです。つまり、自覚している悪意はなかったに違いないですが、客観的には、1それ自体が、無知で他を差別した行為と指弾せざるを得ません。

 どこの地域にも、他への遠慮もなく無知蒙昧なだけの主張をする住民エゴ丸出しの病的な人間はいるものです。しかし、その主張が無理なもの、特に良識のある多くの人々の利益に反するものであれば、断固として退けねばなりません。それが社会正義であり、社会を構成する大人の義務です。規律正しくおとなしくしている大多数の迷惑となるのを承知の上で、一握りのクレーマーの言いなりになるなど、最も恥じるべき事なかれ主義でしょう。
 今回2のように中止をすれば、被災地に対して、同じ人に対して出来ることではないくらいの非礼となることは、明らかだったはずです。従って、安易に中止などしてはならず、断断断固として実施すべきでしたし、残留放射性物質の検査をして問題なければ、躊躇する理由すら欠片もなかったはずです。結果として、正しくても弱い者を苛み、誤っていても強い者にへつらう、人として恥ずべき態度をとった、責任者たちは、その事なかれな態度を猛省しなければならないでしょう。

 このように非礼無礼を重ねながら、3、再び取り寄せたものを当然顔で検査するというのは、一体どういった感覚で出来るものでしょうか?本来そういった、節や配慮、日本的な心配りというものに、最も厳しくあってくれたはずの京都の伝統は、一体どうなってしまったのかと、驚かされます。
 つまり、この期に及んでも、関係者たちは自分たちの行動の問題性の本質、無知を無知と理解せず、無知なままに他人を傷つける可能性に対する遠慮を欠く態度、にまるで気づいていなかったのです(もしくは、住民エゴ輩同様に、自分を清浄と思い込んだ上で漠然と放射能に怯えていたので、はじめから使用したくなかったか、です)。その場その場の感情で反省もし謝るだけではなく、しっかりと何が問題か検証し、自分たちの考えに齟齬はないか確認し、せめて検査をしてセシウムが検出された場合の対応がどうなるかくらいの想定をしてから、その余計なことをして欲しかったものです。そうしていれば、無礼破廉恥な行為は避けられたはずなのです。

 4は3の結果ですが、あまりにもお粗末で、あまりにも客観性を欠きました。その内容たるや、京都市当局が放射能というものの問題性をまったく理解せず、その日その日の地方行政を担っていたことを、自分から告白して恥を満天下に晒してみせただけであり、なお始末の悪いことに笑い者になることにすら気づいていないのです。もはや、常識のある人は等しく呆れ返ったはずです。
 なぜか全国版のNHKは当日報道しなかったように思える13日の京都市の会見は、 「ホウシャノー出ました!だから止めるの当たり前でしょ?」が本音だったと思われますが、再三指摘するように、それこそ当たり前ではなかったのです。例えば、食べる物の検査は、食べる部分をすべて取り出し、それ全体を測ります。食べて平気かどうか測るのに、可食部以外を測っても意味がないですし、パーツごとに分けてもあまり意味がありません。ところが京都市が行なった検査は、食べ物ではない薪に対して食品のように厳密な検査をするのさえおかしな話であるのに、さらにその表皮とそれ以外を分けて、それぞれ別々に砕き、放射性セシウムの有無や多寡を調べる、という理解不能のものでした。
 結果、表皮部分を集めた方に1kg1130ベクレルの放射性セシウムが検出され、それを理由に市長まで出てきて中止を宣言したわけですが、燃やすのは表皮だけではありません。全体で燃やすのなら、薪が含む放射性物質の多寡は、輪切り状にするなど、実際に使用するのと同じ比率で全体を含むものを検査しなければ実態に沿わないことになります。つまり、被災松の薪に含まれていたセシウムは、発表した数値の十分の一以下程度と見るのが適当で、1kg100ベクレル程度など、食品が含んで良いとされる基準値以下で、普通にそこらじゅうに出回っている食品を調べて検出されても、「それがどうした!」と行政府なら言わねばならない問題のない「安全」な数値なのです
 わざわざ、表皮を分離して検査し、表皮以外は食品が含んで良いとされる基準の量も持たない「未検出」であったのなら、多少放射性物質に神経質な人でも、論理性を有する限り、表皮を削って使用すれば済むこと、との結論に達するはずです。ところが、京都市当局などの関係者たちは、「検出されたら使用しない」ことになっていたとか、「燃やして良い基準がない」などと、自分の頭でわずかばかりに思考する努力すら拒否したごとく、気色の悪い非論理的非科学的な発言に終始しました。国の基準がなければ自分の知識と常識に照らして少しはお考えになって欲しいものです。薪以上にセシウムを含む食品を、家庭内で調理して食うのは問題なくて、野焼きすると猛毒に変じるのか、です。いちいち、国の高級官僚にお尋ねしなければ判断できない内容でしょうか?
 セシウムは、京都のこの人々の妄想のように、東北地方に限られたものでも、東日本に限られたものでもなく、今回の事故による放射性物質の飛散は、九州にまで達しており、またそれ以前に、核爆弾の実験などにより、地球上にセシウムが降り注いでいない場所など、少なくともアメリカが原子力爆弾をアリゾナ砂漠で実験し、次いで広島・長崎で破裂させ無差別に大量の人命を奪った1945年以降、存在しないのが、間違いようもない真実です。そのような常識と言える認識があれば、そもそも「検出されたら使用しない」などとは、口が裂けても言えるはずがなかったのです。そして、他所の物をそのような屁理屈で排除するなら、ご自分たちが16日に使用する薪の特に表皮部分が、セシウムを完全に含んでいないことを早々に立証して頂き、含んでいたら、ご自分たちが勝手に決めた「検出されたら使用しない」というルールに則り、即時中止しなければならない立場に、自分たちを追い込んでしまいました(頬かむりして調べないでしょうね。おそらく)。京都の送り火は、今後LEDライトで行うのでしょうか?電灯で伝統とは、すいぶんなオチです。

 本日15日は、日本がポツダム宣言を受諾し、敗戦となった日です。原爆と原発を一緒にしたがる風潮もありますし、この際、放射性物質などについても、自分の周囲にあるそれに気づいて(植え込みの落ち葉などをお掃除【これを『除染』と呼ぶ】しないと、見ず知らず人たちが線量計を持って現れて「ホットスポットで~す!」などと騒ぎ立てるかもしれませんよ)他所のそれを過度に疑うような不毛なマネをして、自分の無知を晒し、他人を傷つけることのないように、何か発言や行動を起こす前に、大変僭越ではありますが、それなりな知識を身につけて頂きたいと思う次第です。

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