高岡さんは、良い役者になる素質は十分に備えていると思えるのに、いちいち女房の話になってかわいそうだが、彼の女房の宮崎あおいさんが主演していたNHK大河ドラマは文鳥がずいぶん登場したので、その連想が働いているのである。今のそれにも、時代考証の上では、まず絶対有り得ないセキセイインコが登場となったが(飼っている秀吉の側室京極氏をおっとりした人物としているので、ちょこまか動き回る文鳥より適しているとの判断と見た。脚本家なのか演出家なのか、ずいぶん小鳥に詳しい)、渡り鳥の雁をモチーフにしている柴田勝家の家紋『二つ雁金』は、どう見ても文鳥的な小鳥なのでお気に入りだったが、その紋が実にもうやたらと強調されており、大いに喜ばせてくれた(ただし、どちらも歴史学的には滅茶苦茶)。
亡くなられた松田直樹選手の通夜を報道するフジテレビの女性アナウンサーが、あの方の場合、素がそうなのだから仕方がないというか、昔からそれが魅力でもあると思うのだが、中継に入っていないと思って、ヘラヘラと談笑している姿が全国ネットで流れてしまい、顰蹙を買ったのが8日だ。多少でも日本サッカーを知っている人間は、勘弁して欲しい精神状態になっているはずなので、そのあたりへの共感が無かったことは否めない。フジテレビ系列では、東海テレビで岩手県産のお米のプレゼント当選者として、「怪しいお米 セシウムさん」とか「汚染されたお米 セシウムさん」などと間違って表示してしまい、結局、社長が出てきて謝罪の上、番組も打ち切りとなったが、それが昨日11日のことだ。スタッフが冗談で作成したテロップが誤って放映されてしまった、他愛の無いいわゆる放送事故だが、そういった感覚が日常的に蔓延しているように思えるの点が、不愉快で苛立たしい。フジテレビは、今年も20何時間テレビとかいう、未だにバブル期の自己愛全開のお祭り騒ぎを、平気で放映していたような、浮き世離れしているところなので(喫緊に馬鹿騒ぎなどしていられなくなるだろうよ)、上から下まで全てが物事を深く考える習慣を欠如させていると、疑られても仕方があるまい。それにしても、福島県の原発事故で、宮城県を通り越した岩手県、しかも昨年秋に収穫されたお米と関連付けてしまえるのは、無知というより脳みそが無いに等しい。常日頃、テキトーな知識でテキトーに反応しテキトーな冗談を言い合い、何事も他人事で他人の痛みなど考えもしないため、テキトーな仕事で「やらかした」に相違ないが、知能レベルが低く、人間性が卑しく、まったく愚かとしか言いようがない。事実は、福島第一原発から岩手県南端まででも150キロ以上離れており、さらに「三日月の丸くなるまで南部領」と言われたくらいに陸奥の国は広大なので、盛岡市までは250キロ以上、北端では300キロ以上離れている。岩手県よりも事故現場に近い地域を含め、日本人にとって重要不可欠な穀倉地帯の農産品の安全性を確保しつつ、基準値以内なら、同じ日本人として黙って食うべき状況だということくらい、同国人としてのアイデンティティを共有するまともな判断力を有する者は、事故現場から400キロ程度の名古屋圏どころか、さらに遠く遠く離れたところの住民であっても、持っているはずである。有るか無いかの危険性ごときで、自分のつまらぬ人生の保全だけで頭をいっぱいにし、産地選びに狂奔するなど、浅ましいく醜いだけであろう。
同様な日本人の面汚しは、残念ながら全国的にごくわずかには存在し、ごくわずかに過ぎないのに、それにすら気づかず(『KY』なのである)、脊髄反射の素早さでしかも大声で反応するため、身の破滅を起こしてしまっている。自分だけ破滅するなら身から出た錆と言えるが、関係の無い周囲まで巻き込むことになるので迷惑だ。例えば、京都五山の送り火問題。津波で大きな被害を受け、多くの人命が失われてしまった盛岡県陸前高田市の倒木を、京都五山の送り火に薪として使用することが企画され、準備が進められていたが、「灰が飛んで琵琶湖の水が汚染される」などの無知蒙昧なうえに厚顔無恥な、箸にも棒にもかからぬ非科学的なクズ意見が、電話やメールでたった数十件あったために、「世論をみて難しいと判断」し、鎮魂の思いが書かれた薪を現地で処分してしまった事件である。その後、圧倒的な真の世論による非難が殺到し、実施されることになったが、処分してしまったオリジナルは戻らないし、古都京都の人々の良識を疑られることになってしまった。この京都市民の面汚しと言える連中は、東海テレビの担当者同様に、福島と岩手をごく近くと錯覚している。つまり、同じ日本人で、あのような災害のあった地域に対する知識を持とうともしていない(どこぞの軽躁病大臣が、現地の地理知識がないと公言していたのを思い出す。知らないなら学べ!)。その程度に、愚者の分際をわきまえず放射能に怯える。また、こうした愚者の戯言など、しっかりはっきり指摘して排除すべき主催者たちが、それを怠り安易に迎合したのははなぜか。本気で被災地の人たちの気持ちを汲もうとせず、たんに話題づくりで企画したからではなかったか。彼らが、毅然としてはねつけるべきことを怠ったために、今年の五山の送り火を見る目は冷ややかになり、京都のイメージが大きく損なった。その責任はあまりにも重い。日本人には、平和的に事を丸くしようと考えるあまり、何事にも妥協主義、事勿れ主義に陥る人が多いが、不当な圧力には断固屈してはならず、まして自分だけが耐え忍ぶのでは済まないことならば、闘わず屈するなど、不正義であり卑怯であり裏切りであり論外である。非を非と知りながら、それを許容するのは、論語に言う「義を見てせざるは勇なきなり」である。漢文を得意とされる博学聡明なはずの大臣が、最も勇なき泣き虫坊やだったように、論語の文字づらは知っていても、生活態度で実践するのは難しいものだが(『論語読みの論語知らず』)、事は公の行事だ。被災者の鎮魂を込めた薪は既にあったのだ。しかも、ご丁寧にある訳がない放射残留物の検査までおこなっていたのだ。なぜ中止にしたのか。自分の中に、結果的に被災者を踏みつけても恬として恥じない、他人事の感覚がなかったか、この間右往左往した主催者たちは、じっくり自省すべきだろう。
朝日新聞の一連の記事
http://www.asahi.com/national/update/0806/OSK201108060131.html
http://www.asahi.com/national/update/0810/OSK201108090263.html
http://www.asahi.com/national/update/0811/OSK201108110159.html
五山送り火の主催者も、悪意を持ってことを図ったわけではない。実行にあたって実際汗を流した人たちの善意も、疑いのないところであったはずだ(中止とか廃棄とか言われて、一番腹を立てたのは、京都市民のはずのこの人たちだろう)。しかし、この組織が、被災者の立場に立って真剣に行なっていたのなら、簡単に中止など選択しなかったはずだ。私は、そこに利用する気持ちがあったのだろうと勘ぐる。私が勘ぐるくらいなので、おそらく多くの人が同様の疑念を抱いてしまったはずで、被災された方々の失望も大きいだろう。被災して苦しみ、まるで関係のない放射能汚染を疑られ、「ガンバロー東北!」の善意の裏に、「東北は汚染地」との差別が潜んでいるように思えてくるのではなかろうか。なんとも情けなく、後味が悪い。
今回のような広域な被害を伴う、世界的な天災と人災においては、福島県を差別し、東北地方を差別し、東日本を差別したところで、最終的には日本として差別されているのだ。西日本だとて、例え福島原発の敷地内に生えていた数百本の薪を燃やしたところで、「灰が飛んで琵琶湖の水が汚染される」程度には、とっくの昔に汚染されている。放射性物質の一部は対流圏に達しジェット気流に乗って世界中を経巡っているのだから、琵琶湖にまるで影響していないはずがないのである。しかし、その程度、放射線で考えれば通常のシーベルトの値を押し上げることすら出来ない超微量なので、不安を感じて携帯電話で通話するのと、どちらが健康に良くないかと言えば、常識的には通話する神経状態のほうが危険と言うしかない。今後とんでもない失態を犯さないように、より汚染させられた地域のことを考えてから行動をとる習慣を身に付けたいものである。
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