しらばくれて震災関連の話題を持ち出すのは、これで最後にする(悪口が次から次に浮かんできてくたびれる)。
15日に「不眠不休で頑張っている」などと言えば、不眠不休でもその程度しか出来ない能無しと指弾される、といったような事を書いたが、フツーに言ってしまうから(産経新聞)、アイツはさすがにアイツだ。
アイツ・・・、いちおう我が国の総理大臣閣下だ。『さん』『君』くらいはを付けるべきか・・・。
人間を、有能な働き者、有能な怠け者、無能な働き者、無能な怠け者の4種類に分け、そのうち無能な働き者は有害なだけなので排除しろ、と言ったのは、ドイツの軍人だったと記憶するが、「下手の考え休むに似たり」とのことわざがあるように、無能な者が考えても良案など浮かぶはずもなく、間違った考えにそって行動されては、はた迷惑この上ないのは、古今東西を通じた真理だ。しかもその『無能な働き者』が責任のある立場にあり、戦場などの「キッキ」の状態であれば、足手まといどころか、積極的に周囲を巻き添えにしてしまう有害極まりない存在となってしまう。カンさん、怠け者にもなれないのなら、即刻、職を辞せ。
有能でないのは止むを得ない。馬鹿は馬鹿だ。その年齢で改めるのは、まず不可能だ。第一、上の軍人の話でも司令官に適任なのは、『無能な怠け者』とされているように、頭がカンカラカンのスッカラカンならそれで良い。物欲と権勢欲で妖怪じみた顔でふんぞり返り、有権者には作り笑いするような政治屋よりよほどマシだ。しかし、この危機にある時のリーダーとして、何故、怠けたように悠然とした態度が取れないのか?へたな演技で良いのだ。どうして腹をくくれない?「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず」と言うが、カンさんは何だ?惑ってお追従のヘロヘロ笑い、憂えて「キッキ・キッキ」、懼れて雨の被災地にも行けず、挙句が「一生懸命やっているのに」とは!
貴君は坂本竜馬が好きらしいが、「志士仁人は生を求めて以って仁を害するなし、身を殺して以って仁を成すあり」という言葉など知るまい。坂本竜馬は幕末の志士で、国事を成すにあたって身を殺すことを惜しむわけがあるまい。実際、凶刃に倒れた。君、この幕末のあくの強い人物と比べ物に出来るところなど欠片もあるまい。竜馬なら日本全国飛び回るぞ。何故、君はいまだに現地に行かない?何故、雨が降ったらお休みなのか?真偽のほどは知るべくもないが、「黒い雨」などという非科学的な妄想に取り付かれていると見なされて、笑われているのがわからないのか?
怯懦は性格なので止むを得まい。しかし、それを責任感ではねのけるのがリーダーだ。とにかく、女房を連れてさっさと福島に行け。そして、少なくとも県庁所在地の福島市の職員を激励せよ。邪魔者扱いされるかもしれないが、とにかく、今、総理大臣の肩書きがある者が、日常の象徴である女房を連れてそこに行くことだけでも意味がある。内堀も外堀も埋められた大阪城に立てこもり、近習どもを周りに集めた豊臣家の末路のように、内閣府に仲良しの議員バッジをつけた奴らや学者なんぞ集めたところで何の意味がある。外に出ろ!ホウレン草を食え!牛乳を飲め!水も飲め。そして悠然としていろ。無い頭など使うな。腹を据えろ。
さて、カンさんへの激励はさておき本題へ。
特に外国人には、日本のことなどちっぽけな島国という誤った認識しかない人が多い。しかし、日本はちっぽけな島国ではない。かなり大きな島国だ。経済の話ではない。人口は世界で10番目、国土の面積にしても231か国中61番目、ドイツやイギリスより広い(ただし山岳が多い)。さらに領海(排他的経済水域を含む)の面積なら、世界で6番目だ。つまり、領土領海を含む領域は、世界でも有数に広大な国なのである。この事実の認識もなく、何となく小さな島の集合体といった認識でいれば、事実を履き違える(福島の原発と東京都がごく近いような印象を持つのがその例)。
日本は島国で、広大な領海を持つ海の国。それは森鴎外作詞による横浜市歌の冒頭にも示されている。
「我が日の本は島国よ 朝日燿う(かがよう)海に 連なり聳つ(そばだつ)島々なれば!」
これは洋行帰りの船上で、日本の陸地を目にした時の、明治日本人の感慨に相違ない。陽光に照らされてキラキラと輝く海を進んでいくと、その向こうに急峻な山並みが見えてくる・・・。ああ、我が国、日本に帰ってきたのだなぁ、と言うわけだ。日本列島のまさに背骨である脊梁山脈は総じて急峻で、それが故に川は滝のように流れて清冽、山紫に水清く瑞穂さざめく大和の国なのである(ここまでくると国学者めいてくる・・・)。
事ほど左様に日本の周囲は海で、海でこそ結ばれた国土だ。そこに住む日本人はほとんど海の民と言って良いだろうし、特に漁村の人は海の豊かさも怖さも知り尽くしている。それでも、あの大津波を知る人はいなかった。いくつかの映像を見る限り、あれは大きな波が押し寄せるなどといった代物ではなく、海そのものだ。その時、大きくうねった海そのものは、高さ10メートルの堤防、それも二重に築かれたそれをも、易々と乗り越える高さで迫り来て、備えの有無に頓着せず、海辺の町を渦を巻いて飲み込み、さらには奔流となって内陸部を侵食、破壊の限りを尽くした。
南からたどれば、宮城県牡鹿半島北方から岩手県の海岸線を縦断し青森県南部に達する三陸海岸は、海の影響を直接受ける地形で、昔からたびたび津波の被害に遭っている。それだけに津波への備えは、日本一どころか世界に類例の無いものがあったが、それでも歯が立たなかった(三陸海岸の女川原発の津波対策は万全だったが、それより南の福島は脆弱であった)。今回の津波は、まさに桁外れだったのである。その千年に一度とも言われる『海』の襲来を想定して、海の国日本の原風景のような海辺の町が成り立つものだろうか。今後どのように復興出来るであろうか・・・。
こういった災害が起きれば、とりあえず壊滅状態の地域から離れて安全な場所に移り住んだ方が良い、などと考えがちだ。中越地震の時の山古志村にしても、火山噴火の際の三宅島にしても、インフラの再建が困難で比較的に住民が少なければ、廃村にしてしまった方が合理的ではなかろうか、と言うわけだ。しかし、それは郷土愛という根を持たない、浮き草のような都市民の発想ではなかろうか。もちろん私も3代前から浮き草なので、数年前までは廃村が合理的と思っていたし、自分自身のことなら今住む場所などあっさり放棄してどこにでも移ってしまえるが(それが浮き草の強さ)、自分が生まれ先祖から引き継いだ土地に誇りを持つ根のある人たちに、その理屈は通用せず、強制するほどの力もないと最近は考えるようになった。
浮き草も、土に根を張る草も、どちらも無くなっては困る。もし、一つの土地に執着する意志の無い人ばかりなら、山奥にも海辺にも人は住みにくく、僻地はすべて廃れることになる。実際、災害は無くてもそうなってきてはいる。僻地のインフラを維持するのは経済的に難しく、またお住まいになっている方々が皆高齢となると、その生活を維持すること自体が難しくなるので、廃村し移住するのも止むを得ない事態が生じているのが、現在の日本だ。しかし、今回の被災地は、そういった限界集落の話ではなく、比較的には人口も多く、まだ十分に活気があり、高齢者ばかりではない地域だ。
もし、災害に遭った「田舎」と漠然と総括される地方を遺棄していけば、日本の海も山も人跡が絶えて荒廃した自然となり(人間にとっても、多くの生き物にとっても、自然なら良いというものではない)、都市ばかりの味気ないものになってしまう。そもそも海の幸も山の幸も入手できずに、如何にして都市生活が成り立つであろうか。田舎は都市より不便で自然の猛威も受けやすいかもしれないが、それだけに人間同士のつながりは温かく、もちろん自然も豊かなはずだ。海にしても、今回のような化け物でもあるが、沖合いで暖流(黒潮)と寒流(親潮)の出会う三陸の漁場は、世界でも有数に豊かではないか。荒廃させてはならない。
私のような生まれながらの浮き草には、十分に郷土に対する思い入れを理解出来ないが、それでもその必要性を認め、助力するべきだと思う。青・壮年層がある程度存在し、その人たちが郷土に生きる覚悟であるなら、それは是非そうしてもらうべきで、都市的な合理性や一時しのぎで、半強制的引き抜いて浮き草にするより、住み続けられるように、自分たちの手で復興出来るように、その前提にたって支援する方が良いだろう。
今回、甚大な被害を受けた地域の人たちも、復興を望みそれに向け働ける年頃の人には、現地に残って働いてもらうべきで、そのための対策が必要となるはずだ。具体的には、国や自治体が一時的な住宅を用意し、震災復興のための人材として雇用し、現地に止まってもらうわけだ。残念ながら、高齢者や子供たちなどは現地に止まっても、復興の足手まといになってしまうだけなので、数年後には郷土に戻れることを約束し、帰還できるまで一定の地域ごと移住してもらい、復興中の現地で働く人が頻繁に移住地と往復できるように便宜を図り、また復興の経過が移住地に伝わりやすいように配慮する必要があるだろう。
こうしたことは、今回よりはるかに規模は小さいが、三宅島や山古志村の前例があるのだから、頼りない首班を持つ政府ではあるが、しっかり参考にし、不足の無いように知恵を絞っての善処を願いたい。
個人には・・・、可能な限り義捐金は札で。ちりは積もっても高が知れているので、「金額より気持ち」ではなく、「金額に気持ちをこめて」かと思う。
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