しらじらしいとは思われませんか?
八百長相撲や学校内のイジメや受験のカンニングを「無い!」と完全否定する、何だか地位も名誉もありそうな大人のことです。現実に目を背けて何の対策もとらないから、『アクシデント』で証拠が出てしまうと、引っ込みがつかなくなってしまいます。
大相撲は勝負事とは言いながら、同じ顔ぶれの知り合いが相手ですから、情で手加減することは当然あるでしょう。人間である以上、無い方がおかしいのです。したがって、「有る」という前提で、どの程度許容されどの程度では許されないか明確にし、厳しい罰則を伴う内規を設け、不正の無いようにしっかり取り締まれるように工夫する必要があったのです。具体的には、情が入りにくい制度を検討し、当然情ではない金銭のやり取りなどは厳禁にし、密告制度を設けて徹底的に取り締まるといった不断の自浄努力を行っていれば良かったのです。ところが、「無い」という前提に甘え、ナアナアで済ましていたので、情実が入り乱れた不正が蔓延してはびこり、あたかもそれが当然のこととなって明るみに出てしまい、慌てふためくことになりました。そしてその時になって、金銭がらみの不正に対し、「びっくりした!」「そのようなことがあるとは!」などと無知を装うのは、不正を正す責任を放棄していた己を恥じる気もないことを示すことになります。
イジメの問題もそうでした。イジメは「有る」として対策を講じなければならないのに、「無い」としたいがために事なかれ主義に流れ、未熟な子供を追い込むことになってしまいました。何事によらず、「無い」ということは無い、もしくは無いと考えたら進歩は無いということを、肝に銘じたいところです。
さて、大学受験のカンニングも、「有る」こととして対策を講じてこなければならなかったのに、「無い」と思い込んだことにして何もしてこなかったのですから、大学側も被害者面だけでは済みません。端的に言うなら、ばれるカンニングをするのも間抜けなら、その間抜けにカンニングされる側はより間抜けで、それだけ間抜けなら、今までもより多くの不正を見逃してきたと考えるのが、正常な思考と言うものなのです。「大学入試の根幹に関わる」のは、今回の一件があったからではありません。カンニングという不正に対して鈍感で、今まで看過してきた大学側の怠慢こそが、公正であるべき入試の根幹を揺るがしているのです。
さはさりながら、不正が明るみに出れば、これは厳正に処罰しなければいけません。それは、不正がまかり通り正直者がバカを見るようでは、健全な社会を維持できないからです。自由な競争社会では、少なくとも建前上、法の下で公正で機会は均等で無ければならず、法を犯して一人勝ちするようなことは許されません。
ところが、今回京都大学などでの受験でカンニングを行い、事が露見して逮捕された受験生に対し、「たかがカンニング」で逮捕するとは、などと公言する人が見受けられます。しかし、それはおかしいでしょう。大学の合否に関わるカンニングは、たかの知れたどうでも良いことではないはずです。もしカンニングを許容するなら、真面目に試験を受けている者が不利益をこうむります。「たかがカンニング」と言う人は、不正がまかり通り「正直者がバカを見る」社会を追認するおつもりでしょうか。私には、そういった態度は寛容ではなく、反社会宣言に等しいものに聞こえます。自由民主主義の一員であるはずの大の大人が、真面目な人が不利とならないように、不正を憎まずにどうするのでしょうか?自分も不正で利を得た身に覚えがあるのでなければ、「たかがカンニング」は軽率な言です。その「たかがカンニング」により、その不正を行った者が合格し、その分真面目に受験した子が一人不合格になる、その人の一生を左右しかねないそれが「たかが」なはずがありません。
件の京都大学の校門には汚い看板が置いてあり、それが自由な校風のなせる技か、この学校のいい加減な管理体制を具現しているのかは知りませんが、『大学自治』というフレーズを脳内で曲解し、能無しの大学当局が警察権力を頼ったことを非難する人もいるようです。しかし、当然ながら、大学のキャンパスは治外法権ではありません。犯罪が起これば、それを警察に通報するのが法治国家における国民の義務ですが、それはキャンパス内でも同様です。曲がりなりにも自由主義体制における大学の自治とは、教育や思想や言論の面における学内での自由な研究や議論に対し、何らかの圧力団体の介入を許さない、といった程度のものです。自由民主主義国家である日本において、反権力闘争をしたければ、選挙権や被選挙権を行使すれば良く、集会するのも自由です。ゲバ棒を持って暴力行為などする必然性などありません。非民主的な国家の抑圧により言論が統制され、表現の自由も奪われた社会と同じに考えるなど、それ自体が平和ボケと言わねばなりませんが、それはともかく、カンニング行為が発見され、それが他校にも及ぶとなれば、公共の利益も考え合わせて通報するのが当たり前でしょう。それ自体を非難するほうが滑稽であり、まして『大学自治』とは無関係です。
問題を履き違えてはいけません。八百長もカンニングも許されることではなく、それが明るみになれば処罰しなければならないのです。例えば、スピード違反は前の車に付いていた自分だけ捕まっても、文句は言えません。駐車禁止のステッカーを貼られるのも、運不運があるでしょう。法に基づいて摘発され、「他の人もやってる」と言っても「私もやってた」以上は仕方がありません。もちろん、他の不正を放置してきた無責任な状態は別に非難されるべきで、取り締まる側は、不正を許す状況を看過しないように、「前の車」も別の通りの違法駐車車両も、等しく取り締まることが出来るように、絶えず改善しなければなりません。他に違反者がいるから、違反をして捕まった一人を見逃すわけにはいきません。他の違反者、不正を働く者も、しっかり取り締まらねばならないだけです。
大切なことは、「正直者がバカを見る」ことが無いように努力することです。不正を働き露見した間抜けなどに同情する暇があるなら(問題を露にした功績は認められるが、本人の意図ではないので褒められない)、これ以前に起きていたはずの不正によって不利益をこうむった正直者に同情すべきでしょう。大学側も、誤るべきは、そうした人たちに対してであり、憎むべきは、そうした人を生じさせていたであろう己らの怠慢にあります。猛省の上、善処いただきたいところです。
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