懐中のカナ
今夜はカナが出て来た。何をするでもなく人間の肩や腕に、夫のデコとともにいるだけなのだが、放鳥時間の後半になると懐に潜りこんで来た。「また産卵して卵管脱になったら嫌だな・・・」と、再発を恐れたが、産卵する気配はなかった。
何でもそうだが、事後に行う悲観や楽観にとらわれるのは、見苦しいと思っている。過去の出来事に「if」をつけてその結果を想像し、現実と引き比べて喜んだり悲しんだりしたところで、現実は変わらない。
それでも考えてしまう。普通、休む元旦に、今年に限って放鳥し、その時卵管脱に遭遇したのは、幸か不幸か。留守中に卵管脱が起きていれば、手遅れで亡くなっていたはずだ。となれば、幸いだった。しかし、懐中に入り込んで気分が良くならなければ、そこで産卵などせず、卵管脱も起きなかった可能性もありそうだ。となれば不幸か。だが、あそこで産卵しなければ卵詰まりが悪化して翌朝は抜き差しならない状況になっていたかもしれない・・・。
このように「if」を考えるのは、いろいろな可能性を想定して、似たような事態に備えるといった意味では有意義だが、想定で得られた一つの可能性で喜んだり悲しんだりするのはくたびれる。他の可能性を捨象して、自分が望む(無意識に悲観を望むこともある)一つの可能性にこだわるのは非合理なのである。
と言うわけで、とりあえず危機的状況になっていないことを喜ぶべきだろう。もし逆の結果なら、それはそれで受け止めるまで。そうありたい。
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