『Y染色体』は簒奪のススメか?

  数日前の補足をしておきたい(今日また『別冊正論』の広告が新聞に載っていたのである)。

 人間は23対の染色体を持っていて、そのうち22対が常染色体、1対が性染色体と呼ばれる。生物の授業が苦手だった人のために言っておくが、染色体とは遺伝子(DNA)の塊のことだ。いずれも対の一方は父、もう一方を母から受け継いだもので、常染色体では減数分裂を起こして半分の形質を子に伝えることになる。減数分裂の際は、父母から受けて対になっていた染色体が入り混じった上で2つに分裂するので、どの形質が遺伝されていくかは偶然ということになる(つまり、子供は父母の影響を等しく半々に受けているが、4人いる祖父母の影響を四分の一ずつ受け取っているとは限らない)。
 ところが男性が持つ性染色体は減数分裂することが出来ない。男性はX、Yという異質の染色体が対になっているため、入り混じることなく受け継いだ時同様にXとYに分かれるだけなのである。従って、男性の持つY染色体はその父からそのまま受け継がれたものであり、それは父の父、父の父の父・・・と、男系の父祖から受け継いできたものに相違なく、天皇陛下が2千年余の昔に存在したとされる神武天皇以来、連綿として男系が継承されたと仮定するなら、陛下のY染色体は神武天皇から引き継がれていることになる。そこで「神武以来代々受け継がれてきたY染色体の刻印こそが皇統の証である」と主張される人も出てくることになる。しかし、それは遺伝に対する無知や、情緒的な男尊主義を表明するばかりではなく、天皇家の弥栄(いやさか、ますます繁栄するという意味)を望む者立場としては、軽率この上ない危険行為となりかねないので、厳に自重すべきだと私は思っている。
 なぜなら、2千年も前の人物、それも有力者で子孫を多く残しうる立場の人のY染色体は、とてつもない裾野で拡散を続けたはずで(そのY染色体所持者が誰かの家の養子となれば、その時点で『神武天皇以来のY染色体』の家系に変貌する)、少なくとも日本人男性であれば、現在誰も彼もがその染色体を持っていて不思議は無いので、皇位の正当性がY染色体に基づくのであれば、その候補者は数え切れなくなり、簒奪者の安易な論拠になってしまいかねないからである。「ちょっと遺伝子を調べれば、『神武天皇以来』の代わりが見つかるぜ。そんなもの何が尊いのさ」と言われたらどうするつもりであろうか?
 そのようなY染色体を持っていても、市井の馬の骨は馬の骨に過ぎず、少なくとも千数百年の系譜を擁し、代々にわたって日本国の祭祀をつかさどられている家柄と比肩できるものではない。従って、お生まれが天皇家であることが皇位継承にとっては最重要事であり、さらにその血統的な由緒としては、天皇家本流の系譜に連なっていること程度が重視されるべき点で、ご皇室を尊重するのであれば、凡百が有する『神武天皇以来のY染色体』の有無など何の意味もないとするしかない。

 そもそも、Y染色体そのものは遺伝のシステムの中で代々男系に引き継がれるものであっても、それは不変のものではあり得ない。遺伝子の複合体である染色体は必ずや変質する。そして現在Y染色体の変質過程を解明することで、人類の起源をたどるような研究が盛んとなっており、それはY染色体の変化の過程をDNAの塩基配列の変化から読み取ることで行われている。もし神武天皇なりアダムなり、ずっと昔々のその昔のご先祖様から、同じY染色体で不変であったら、相違点から変化の過程などわかるはずがないのである。
 例えば、AAAAAというY染色体の所持者があったとして、10代後の子孫の1人が突然変異を起こしてAAAaAになれば変質していないグループと2系統に分岐したことになる。さらに10代後にAaAaAが出現すれば3系統になり、時代を経てさらにそれぞれのグループで変異が起きれば、BAAAA、とかAAAaCとかaaAaAとかいろいろ出てくる可能性がある。そして、段階的に変化した跡を追うことで、aaAaAは類縁性からAaAaAから変化したと考えられ、同様にAAAaA。そして原初的なAAAAAと辿っていけるわけだ。
 ようするに、Y染色体は当然変化するものであり、神武天皇以来百数十代などと言うのであれば、それはずいぶんと変化していて不思議は無く、変異はランダムに起きるものなので、天皇家が神武天皇Y染色体の原初的な姿を伝えているとは限らず、むしろはるか昔に分岐した家系の誰かが、たまたまあまり変質していないY染色体を伝えている可能性の方が大きい。これが科学だ。では『神武天皇以来のY染色体』に基づく皇位の正当を強調される方々は、科学的に解析した神武天皇Y染色体との類似性をもって、「誰か昔の王孫ならぬ」と唱えつつ、どこかの『馬の骨』様を崇敬し、現在の天皇家から皇位の簒奪を策謀されるおつもりであろうか?

 男系天皇の堅持を主張するのは、ご皇室に対して失礼だと個人的には思うが、言論は基本的に自由なので、それ自体に文句は言えない。第一、実際に男系が続いた伝統がある以上、それだけで十分に有力な意見と認めねばなるまい(伝統は継続させることに意味がある)。ただ男系の皇位系継承者数が減る一方の現状では、例え天皇陛下ご自身やご皇族方が男系を望まれたとしても、実現困難なのである。
 従って、男系にこだわるなら、『神武天皇以来のY染色体』などと稚拙で危険な主張にこだわらず、ただちに「天皇及び皇族は、養子をすることができない」とする皇室典範の第9条の規定を削除するなり、一定のルール化を行い、旧皇族なり遠縁の男系からでも養子を迎えられるように努力されるべきだろう。
 もちろん、個人的には男系に限った皇位継承など男女同権の現代にはそぐわないと考えるので、皇室典範第一条「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」こそ変えるべきだと思っている。しかし、女性の天皇では配偶者を見出すのが難しい日本の伝統と現状を十分に考慮しなければ、即位された内親王殿下が気の毒なことになると思う(つまり現状では男系の方がマシだと考える)。
 なお、皇室典範第10条「立后及び皇族男子の婚姻は、皇室会議の議を経ることを要する」も、第12条「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」も、自由民主主義の日本国で生まれ育った私には奇怪な規定で、そもそも皇室会議などと言うものの存在も納得しがたい(政治的権限を有さないご皇室のプライベートに、昨今は特に見識怪しい三権の長やら官僚に過ぎない宮内庁長官やらが差し出口をする必然性があるのか?)。
 皇室典範の内容、天皇家のあり方、ご皇族の人権尊重、その他もろもろ考えるべき点は多い。Y染色体などどうでもよろしい。

コメント

タイトルとURLをコピーしました