アラフォー世代の反抗?

 例の尖閣諸島沖ビデオを世間に知らしめた海上保安官氏は43歳とのことである。そこで、世に言うアラフォー世代での「反抗」として私が連想したのは、歌手の故尾崎豊さんである(生きていれば今月29日に45歳。それにしても『不惑』でなく「アラフォー」となると、ずいぶん軽いなぁ)。
 尾崎豊さん、彼が亡くなって新宿の落合斎場で荼毘に付されたニュースが流れる中(実はこの火葬場に新聞を配っていたことがあったので懐かしいなと思って見ていたのだ)、彼のファンだったらしい大学の友人E藤君から突然の呼び出しを受け、カラオケで熱唱するのを聞かされる羽目になったのを思い出す。何が悲しくて、野郎の思い入れたっぷりな熱唱に付き合わなければならないのか!!現在中年に達し精神的に病んでしまっているらしいこの友人の若かりし日の大いなる過ちにより、私の『尾崎』嫌いは決定的なものになってしまった(つまり以下はカラオケに付き合わされた私怨なんですね。これが)。
 それでも『15の夜』や『I LOVE YOU』くらいなら耐えられる。しかし『卒業』となると堪らない。何だ、あの気持ちの悪いフレーズの連続攻撃は!!教室で「何に従い従うべきか考えていた」だぁ?学校と言う集団生活を送る場に身をおくこと自体が、すでに従っていることになるんだよ、んなこともわかんねーで利口ぶってんじゃねぇよ!!と言った具合になるわけだ。
 まともな大人になりたいなら、「何に逆らい逆らうべきか」、「何に対して私身を犠牲にしてでも逆らい、公共を思えば逆らわねばならないのか」を考えねばなるまい、と今でも思う。従って、「逆らい続けあがき続けた早く自由になりたかった」などとあれば、何となく身を持て余して良く知った大人に駄々をこねてみせるのと、その根底からして大違いだわ!と毒づきたくもなる。社会なり所属組織に従うという大前提の上で、それでも人間として、より大きな公共に資するため逆らわねばならない時に、実際に逆らえるか否か。人として逆らわねばならないのがわかっていても、家族との生活を守るため行動に出来かね、しがらみの中でもがきあがき続けるのが大人と言うものだろう。当然逆らえば、所属組織から自由という名の失業生活に陥る覚悟が必要となるし、家族とのこれまでの生活を犠牲にしなければならなくなる。
 ようするに、43歳の海上保安官氏が尾崎派か反尾崎派か無関心派かは知らねど、今現在大人として反抗し大人として制裁を受けていると見なして(何なの?あの自宅に押し寄せるマスコミと言う名のハエは・・・)、敬意を表したい。

 話の枕に批判したので、この際、尾崎豊さんの『卒業』の歌詞で癇に障る点を、わざわざ一々具体的に列挙してみよう。
 「行儀良くまじめなんて出来やしなかった」(しなけりゃいいじゃねえか!)
 「夜の校舎窓ガラス壊してまわった」(器物破損で警察へGO!他の人に迷惑だからやめてね!)
 「逆らい続けあがき続けた早く自由になりたかった」(だから自主退学して!)
 「信じられぬ大人との争いの中で」(無視すりゃいいじゃねえの…)
 「許しあいいったい何解りあえただろ」(信じられない奴と解りあうことねえだろが!)
 「従うとは負けることと言いきかした」(「言いきかした」って分かったような言い回しが腹立つ~)
 「卒業していったい何解ると言うのか」(学校の卒業と精神修養は別だろうが!)
 「想い出のほかに何が残るというのか」(想い出が残るだけでたいしたものなんだ、よ!)
 「先生あなたはかよわき大人の代弁者なのか」(お前ら生徒たちの代理人なんだよ、あいつらは!)
 「俺達の怒りどこへ向かうべきなのか」(てめえに向けてろやボケが!)
 「これから何が俺を縛りつけるだろう」(勝手に縛りつけられたがってろよ!)
 「本当の自分にたどりつけるだろう」(「本当の自分」とやらにたどり着いている大人がいるか?)
 「仕組まれた自由に誰も気づかずに」(「誰かが仕組んでくれた自由でも自由をくれるならくださ~い!!」が社会人の叫びなんだよ~~~!)
 「この支配からの卒業 闘いからの卒業」(学校なんてコップの中でくっだらねえ闘いしてんじゃねえよ~!!!)
 最後の方は悲痛な叫びになってしまうのだが、徹頭徹尾の甘えた態度でありながら小賢しい言辞を並べる、その以下にも若気の至りの無恥さ加減に腹が立つ。早い話が、人生で最も頭の回転が早く、体力も無駄にあふれかえっているハイティーンの小僧っこたちのうち、その時期を何とかやり過ごせないようなキャラクターは、さっさと大人社会に放り込んでもみくちゃにしてやるべきを、保護施設化した学校に手厚く囲いとめて甘やかすものだから、目先にいる教師を含めた保護者が敵だなどととち狂ったことを言い募り、自分のことしか見ずにウダウダと愚にもつかないくだを巻くのだ。といった感想しか持てない。親が我が子を崖から突き落としがたくとも、とりあえず図体だけはでかくなった甘えん坊のクソガキの能書きなど便所で一人でやってろ、としっかりかっきりくっきり言ってやるべきだったのではなかろうか。
 最近になって尾崎さんのファンになる今が若い人もいるだろうし、中高校生の頃に彼の活動の影響を受けることになった昔は若かったらしい人にも、E藤君のように支持派は多いかもしれない。確かに、詩人としての繊細な感性と歌手としての不思議な魅力は認められようから(生理的に受け付けない人もいるはず)、支持者が多いのも当然ではある。さりながら、私立高校という校則に違反すれば即停学・退学が当たり前の組織を理解出来ずに入学して(宜しいですか、生徒はその学校の「商品」「作品」なんですよ。「与太者」の姿をして徘徊されたり、犯罪者になったりされたら、その学校の評価が落ちて「優秀」な生徒は集まらず、哀れその学校は廃校にむけての突き進むことになるのですよ【もしくは「不良」の「収容所」となる】。公立ならまだしも、私立は社会的評価が落ちれば致命的ですね。従ってその組織を守ろうとすれば、校則は厳しくなるでしょうし『排除の論理』が働くのは当たり前でしょう?)、喫煙やら暴行やらで無期限停学となり、やる気を失い自主退学というお決まりのコースをたどった反抗期の坊やの尾崎氏が、その豊かな才能により数年後に反抗期当時の心象風景を歌ったらしい曲を、まさにその年頃で聞かされ、その時代の空気に忠実な馬鹿どもによる校内暴力という現実を味あわされた後輩世代には(しかも公立で義務教育だと、なかなか退学には出来ないので歯止めがかからない)、私のように根深いところで嫌悪感を抱く者がかなり存在しても不思議はないと思う。
 まったくあの頃は、どうでも良い細かなことまで校則にして、愚にも付かぬ権威主義をふりかざすばかりの能無し教師どもが多く、事なかれ主義の学校組織がすでにグダグダであったのは確かで(ひざ下何センチとかぬかしていた奴らは、その後ひざ上何センチの世界になってどうしたのか?個人的意見なら、大根足が正常な年頃のお嬢ちゃんたちは、皆すべからくモンペでもはいていれば良いのだ。モンペが嫌ならパンツルックと言い直すぞ!)、その点は大いに共感を覚えるが、生徒側にしたところで、頭髪だのスカート丈だの適当に守っていれば済むことであった。そのような些末時に一々駄々をこねた挙句に、自らの学校生活を破綻させるなど愚の骨頂であり、いつの時代でも何か考えるにしろ考えていないにせよ、平和な学校生活を送ることが出来たはずの多数の真面目な生徒にとっては、馬鹿教師も馬鹿同級生もはた迷惑という点で共通の障碍に過ぎなかったのである。
 学生の頃は反大人社会だの学校権力だのといきがりながら、親からもらった小遣いで喫煙し、自らが成人に達すれば社会に背を向け麻薬に走る。挙句が身を持ち崩して廃人と化して、一体何に反抗しているつもりなのか、また一体何に反抗できるのか。組織なり社会に従うのは当たり前で、嫌なら出て行くまで。嫌々をしながら居続けようなど、自らの信念からとる反抗ではない。これまで従ってきたことに反抗しなければならなくなった時、失うものの大きさを理解しても行うのが反抗であると、この際改めて心したいところだ。

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