今話題の仙石大臣閣下は、仄聞するに小沢一郎さんと犬猿の仲との由で、その点個人的にシンパシーを感じていた。それではなぜに顔を見るだに腹が立つ「敵の敵でも敵は敵」という考えに至ったものか、思うに閣下が「偏狭なナショナリズムで物を言うな!」といったことを仰っているのをテレビで拝見したのが発端であった。
「偏狭なナショナリズム」とは何だろう?意味を砕いてみれば、自分だけの狭い考え方に偏った国家主義ということになる。さらに、国家主義(ナショナリズム)とは何かと言えば、国家の存在を個人に優越する価値を持つ存在とする考え方のことだ。このように整理した上で、改めて法律家でもいらっしゃる賢明な閣下にお尋ねしたいのは、世界中の人々が共通して持てる、つまり広遠にして普遍な国家主義(ナショナリズム)などありえるのか、である。つまり、国家主義という時点で、それはすでに地域を一国に限定した考え以外の何物でもない以上、「偏狭な」などと修飾しなくとも、初めから偏狭なものではなかろうか。
何らかの国籍を有しそこに生まれそこで育ち同国人と共に生活していれば、所属する国家に対してアイデンティティ(自己同一性。「貴様と俺とは同期の桜」とか「同じ釜の飯を食った仲」などという言い回しを連想しても構わない))を持つのは当たり前で、おそらく閣下にしてもそうだろうと信じたい(外国で事故があり死者が出た際に「日本人はいませんでした」と必ずくっつけるのが現実)。そしてもしかしたら、そういった自己の国家や民族に対する帰属意識を、「健全なナショナリズム」と呼んで「偏狭なナショナリズム」と区別しているのかもしれない。しかし、健全であろうとナショナリズムは偏狭でしか有り得ないのが、論理的な帰結であり、自国の優秀性を誇るのは当然ながら、それを他国との比較で強調するような国粋主義に対して非難したければ、「不健全なナショナリズム」とでも表現するしかないのである(その国や地域に根ざした文化はどこの何であれ優れているに決まっており、他国と安易に比較できるものではない)。
ナショナリズムの持ちようはそれぞれの個人で強弱があり、例えそれが自分よりはるかに強くとも、不法行為でもしない限り否定は出来ない。祭日に門前を国旗で飾るのはむしろ伝統的でゆかしい面もあるし(我が家にはそういった伝統はなかったので、今さら面倒なことを新たに行わないだけ)、靖国神社に詣でて英霊と語らいたければそうすれば良いのである(私に関して言えば、親族に英霊が見当たらないこともあって、1度教授に付き合って参拝、見学した以外は、横を目礼しながら素通りするだけ)。それを「偏狭」などと決め付ける了見の方が、よほど偏狭であろう。
しかし、最近になってこ私の聞き違いだったのではないかと心配になってきた。仙石閣下の仰っていた「へんきょうなナショナリズム」とは、「辺境なナショナリズム」のことで、辺境は東夷の地と呼ばれ、東方辺土などと大昔に奥ゆかしくも自称していたこともある我が国であって、つまりは「日本のナショナリズムで物を言うな!」と恫喝したのではなかったか、と思えてきたのだ。
当然ながら、辺土の反対は中央であり中華だ。日本の自然なナショナリズムを逆なでにして、支持率を直滑降させてでも、中華、人民共和国のナショナリズムは尊重しようと言うことなのだろうか。そうであれば、自己犠牲(同胞の犠牲)を伴った実に見上げたお心がけに相違ないが、辺境の民草(しかし主権者)にとっては迷惑この上もない態度と言わねばなるまい。主権者が不信任を感じるのは、当然至極のことであろう。
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