尖閣諸島沖の当て逃げ事件、事実は事実として初めから出しておけば良い映像を、外交カードにする経験も能力も胆力も識見もないくせに、わざわざ6分にまで短縮し、国会の一部議員のみを集めた秘密会で、もったいぶった見せ方をしてお茶を濁そうとした挙句の果てに、44分のより詳細な映像をネットで公開されてしまったのだから、あまりに無様で滑稽であった。
昨今「権謀長官」ならまだしも「健忘長官」とか、仕舞いには「センゴクさんはパー!」と揶揄されるに至ってしまった御仁を中心に、必死の「犯人」探しが行わているようだ。しかし、おそらく「犯人」は、露見して1、2年刑務所に入っても良いくらいの覚悟はしているはずなので、捕まえても大した意味はないだろう。むしろ本人が名乗り出るなり特定されて逮捕されるなら、かなり保守色の強い人たちから『英雄』として珍重され、現職を失っても生活には困らない境遇になる可能性が大きい。つまり、努力の末に燻り出したところで、「あぁ、流したよ。流したさぁ!政府が腰抜けで腹が立ってやったぜ!」と居直られるだけと言えよう。
それでも法治国家である限り捜査は必要不可欠だ(公務員の服務違反などあってはならない)。しかし、より重大なのは海上保安庁なり現場サイドの現政権に対する不信感ではなかろうか。現場の士気が低下して倦怠感が漂うどころか、こういった職種では人一倍強いに違いない国家への帰属意識や上官への服属義務をかなぐり捨てさせ、政府に対するあからさまな反抗を決意させるようでは、政府さらに国家として危機的状態と言わねばならない。もちろん情報が漏洩するのは防がねばならないが、その国家の情報を管理すべき立場の当人たちが、むしろその国家への帰属意識が強いために、現政権への抗命を決断させる立場に追い込むようでは、すでに国家を担う政権の体をなしておらず、むしろその存在は一国の統治上危険極まりないものとなっていることを、強く自覚すべきだ。
国家意識なり愛国心に乏しいように思われる日本の現政権の人たちが、それとは正反対に無反省・無遠慮に肥大化した隣国の愛国心に翻弄される姿は、笑止千万と言わねばならない。何かと言えば、日本国内の動きを右傾化だの愛国教育の復活だのと指弾しながら、隣国の過剰なそれには目をつぶり、ましてや一党独裁の共産ファシズム国家に対し、友好親善のお題目を口先で並べ立て、目先の利益で追従笑いを繰り返して何になるのであろうか。体制がまるで異なる国同士に心からの友好親善などあり得ない事くらい、自由民主主義国家の一員なら、三歳の幼児でも肝に銘じるべきだと思うのだが、こういった考え方も国粋的なのだろうか?「軍靴の音」は、平和ボケした島国ではなく、彼岸の大陸から聞こえてきており、昨今はそれが露骨に響くようになっただけであろう。
こうした危機感がなく間の抜けた政府の対応も、他人事なら「いい気味だ」で済むが、自国の事であり、自分が有権者として何ら貢献していない政権であっても、同じ国に所属する限り共同責任を負わねばならないので(したがって安易に「過去の責任」など遡上には挙げられぬ。「自分」のことなので慎重な検証を経ない冤罪など断じて認めるべきではない。それを安易にする人は、どこか他人事だと甘えているようにしか思えない)、実に腹立たしく口惜しい。一旦政権を担うことになったのであれば、自分たちが自分たちの国民(日本国民は一億人以上もいるのだ!)を守り背負っていかなければならない。つまりはナショナリズムを前提としなければ存在意味のない立場になっている自覚がないのであれば、即刻下野でも何でもして頂きたい。
そもそも、あの国が一党独裁の言論統制によって成り立っている現実を踏まえ、さらにその党が統制力を失った際、肥大化した軍隊が暴走するといった将来的な事態を想定して、心構えをしなければならないはずである。それを『戦略的互恵関係』により相手国が徐々に民主化し、自分たちと同じ思想信条や政治システムに移行するなどと言う、幻想のお花畑で蝶々と戯れるがごとき前提が許されるか否か、せっかくの事態なのでよそ見せずにじっくり考えるべきだ(日本は大正デモクラシーを経て軍国化し、ドイツはワイマール共和政のもとでナチス政権が誕生した。この歴史的な事実を踏まえれば、万一民主化が成功しても、それで安心できると言うものではないことも冷徹に考えるべき)。外交はひたすらリアルなものであり、国家間の話し合いに、幻想なり希望なり期待などをして臨む方が間抜けなのである。自分らがコスモポリタンだと信じたところで、他所からは日本人以外の何者でもない。嫌なら国籍を捨て何処なりとも亡命し、そこのナショナリズムに染まれば良い(愛国心を持つ気のない者の亡命を受け入れてくれる国がどれほどあるかは怪しいものだ)。
そもそも、自国のように他国がなるなどという発想そのものにして、実は不遜ですらある。内政不干渉は相互信頼のため必要であり、逆にいえば干渉が必要な国とは相互信頼を築くのは不可能なのである。己を知り他を認めようとするなら、そのような安易で身勝手な同化を夢想する不謹慎を悟り、異質な存在として十分に他を理解するという戦略より高度な政略上の大前提に立脚し、互恵関係でも何でも結ぶ以外にあるまい(あの国が共産党の独裁で治まっているのなら、その前提で付き合うしかない)。
さて、昨今の我が国政府の体たらく、その無様な様子をお茶の間で仄聞していて、昨年2月、外務大臣であった故中川昭一さんが、酩酊状態で記者会見に臨み、世界的な笑い者になり国内の顰蹙を買ったのを思い出した。結果、外務大臣を辞職されたわけだが、アル中なり酔っ払いなりに国務を担当させるわけにはいかないので、これは仕方がないところではあった。お茶の間国民である私なども、当時、お辞めになってアルコール依存体質を治療されるべきだと思ったものだ。
そもそも、この方は政治家として軽率な発言も多かったので、個人的にさほど好意を持っていなかった。言っている内容には同感でも、責任のある立場であるほど、時と場所により表現の仕方を考えなければ、かえって内容を貶めることになる。それを考えずに話せるのは、それだけ頭脳が明晰な証左でもあるが、はっきり言えば苦労知らずのお坊ちゃま体質の表れだと見なしていたのだ。しかし、辞任から日を置かない時期に、スカパーの報道チャンネル(日テレ)に出演され、ご自分の酩酊会見の映像を見ながら「無様ですね~」などとしみじみと評しているのを見て、人間として多大な好意を持った。恥ずかしいやら悔しいやらで、しばらく誰にも会わずに逃げ隠れするのが普通な状況であったのに、それを押して出てくるとは、それが精神的に良いと見なした周囲の助言や選挙を控えた配慮もあったかもしれないが、やはりご本人が周囲に説明しなければならないと信じる生真面目さからくる『潔さ』を、その行動から感じ取ったのである。
思想信条なり主義主張は違っても、また何となく感じる気質の違いから嫌悪感を抱いていても、同じ人間なら人間としての潔さは感じ取れることが多いと信じている。潔さ、つまり、その場での自己保身にとらわれず、その時に必要とされる責任を全しようとする態度だが、もし誰かの潔い態度を見て感じ取れないとしたら、それは思想信条なり主義主張にこだわるあまり、人間としての共感するだけの感性を失っているからだと思う。例えば私などは、思想信条としてはおそらく保守的な傾向を持った部類のため(自由民主主義を尊重する社会を『革新』したいとは考えないため。また、マルキシズムによる共産主義に至っては、そもそも原始共産制などというおとぎ話を前提としている以上、古典的学問としてその精度を楽しむ以上の価値を一切認めないことにしている)、若い頃に学生運動に励んだようなジイ様の御託など、身の毛もよだつものでしかないが、それでも人間としての潔さには虚心坦懐でありたいと望んでいる。
実際、大学時代に西洋史をご教授いただいた先生は、マルクス主義の階級闘争を軸に歴史を考察する純粋な左派学者であり、そういった近代の特定の思想テーゼを歴史考察に敷衍するのを嫌う学生としては避けたいタイプであったが(もっとも普通の講義で思想教育などなさらない)、それでも晩年に酸素ボンベを引きずって鼻から吸引しつつ講義に臨む姿には、迷惑に思いつつも潔さを感じたものである。迷惑?講義中にお倒れになられたらどうしたものかと、「スハー・・・ぅっ、スハー」と先生の息が響くたびに教室中が緊張し、「別にそこまでしなくとも、単位さえもらえれば文句ない」という学生側の本音を表明出来なかったのだから、これはやはり迷惑なのである(私は日本史専攻)。実際、途中で休講となってそのままお亡くなりになってしまい、最初から引退されていた方がよほど学生に迷惑にならず潔いと見なされる結果となってしまった。しかし、それでも最期まで教壇に立とうとする気概を示されたのは、長期にわたって教鞭をとった先生の職業意識からの潔い態度に他ならず、学生の一人としてその姿に今でも心から敬服している。
したがって、現在の寝とぼけた民主党政権の人々に対しても、私は無意識に人間としての潔さを見出したいと思っている。しかし、前党首の鳩山さんは、辞めるのを止めたなどと言っているし、前幹事長の小沢さんは、何処にでも出て話すとの発言をあっさり反故にし、補正予算の審議が滞ってもまるで平気で頬かむりだ。そして現党首の菅総理大臣閣下、これら問題のある実力者を追い出すことも出来ず、外交的には波風立てないように追従笑いの右顧左眄、結果すべて大波大風にしてしまい、支持率は下がる一方なのである。三者三様に無様であり、「その場での自己保身にとらわれず、その時に必要とされる責任を全しようとする態度」など微塵も見当たらない。それは、もはや唖然とする域を超え感心させられるほどだ(責任をとりたくない場合は責任のある地位には就かないこと。責任ある地位に就きながら責任を取らないのは信義の欠如であり不誠実。簡単に言うなら人間として「汚し」)。
この状態で衆議院を解散などすれば、自民党の麻生さんの轍を踏み党の壊滅、それ以上の消滅につながる情勢と言えよう。それでも解散するといった潔さを示せず、やはり残りの任期だけの政治的生存を指向するのであろうか。起死回生の策など期待出来るものではないので、私にはあの政党はもう終わっているようにしか思えないのだが、どうなのだろう。・・・期待し得ない者に期待しなければならないのは何とも空しいが、これも民主主義の結果であると、前回の総選挙で民主党を応援した人たちとこの結果を共に受け止めねばなるまい。
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