民主党の鳩山さんが総理大臣閣下になり、自民党の麻生さんが影響力ゼロの政治家の一人になった。はっきり言えばどちらの人物も嫌いだが、無責任だった鳩山さんは、君子が豹変し、地位が人を作って変ることを期待したい。
麻生さんは、もうどうでも良いのだが、返す返すも負けっぷりが悪い人であった。都議選で大惨敗した時に結果は見えていたはずで、あの時点で衆議院選も負けることを前提に動くべきなのに、それは負けても首班指名選挙に名前を書ける人間を総裁にしなければならないということに他ならないにもかかわらず、両議員総会を流し、総選挙に持ち込み、代わりのやっつけ集会では仕込んだ連中に予定調和の発言をさせて居座った(麻生さんを励ましていたあの議員どもはどうなったのかね?)。挙句に馬鹿なコマーシャルで揺り返し票まで手放し大敗して、名前を書いてもらえず、総裁を辞任するのだから目も当てられない。救いは、あの時離党も出来ないくせに口ばかりで混乱させた軽薄輩も、選挙で負ければ維持した体制など吹き飛ぶことすらわからない頑迷なジジイどもなどなどの愚かな連中が、当然の苦杯をなめて、「ザマーミロ!」と思えた点のみだ。
このように書くと思う様けなしているようだが、これでも遠慮している。なぜならどちらにもごく微弱な個人的な縁を感じているのだ。鳩山家は私が6年通った大学の創設に関わっており、首相閣下は教鞭をとっていた時期もある。一方の麻生さんの母方の祖父である吉田茂は、近所の小学校の卒業生で、近くの寺の開創にかかわった吉田茂の養父のお墓は、目の前の道を行った先で、ワンマン総理も墓参にリムジンに乗って通ったそうだ。・・・といった余計なことを知っていると、あまり悪くも書きたくなくなるのである。だから、「まあ、せいぜい頑張ってください」(これは至極名言だな)。
それはさておき、昨夜NHKで放映された『爆笑問題のニッポンの教養』という番組の話だ。
これは漫才コンビ『爆笑問題』のお二人が科学の第一線で活躍する研究者を訪ねる番組で、私は見たことがなかったのだが、文鳥を使った実験をされている慶応大学の渡辺茂教授の元を訪れるというので、楽しみに拝見したのであった。
いろいろな実験は面白かったし、野生の文鳥らしき映像があって興味深かった。しかし、最後の座談の内容にはがっかりさせられた。語るのが身上の『爆笑問題』の太田光氏が、「動物はなぜ死を認識しないのか?」にこだわり、それに対して違和感を繰り返し表明しているのに、げんなりさせられたのだ。
渡辺教授も、進化の中で死を考えることが有利ではなかった、といった趣旨のご返答をされていたが、生きることだけに集中しなければならない動物が、死を認識し恐れて生きていけるだろうか。いけないので、考えないようになるべきで、それ自体は合理的なだけであり、良いも悪いもない。
太田氏の発言を聞いていると、その疑問の背景には、法廷で被害者に対する気持ちを尋ねられた土浦で連続殺傷事件を起こした出来損ないの発言があるようだ。「ライオンがシマウマを食べる時、ライオンはシマウマに何か感じるでしょうか?」といったものだが、太田氏の鋭い感性は、この発言から人間は他の死を思いやれるのに、動物が他の死を思いやることが出来ないのはなぜか、といった疑問に行き当たり、さらに考えを進めて、近くで仲間の死を目撃しているはずの野生動物が、それについて何とも思わないらしい点を、不思議以上に気味悪いものを感じるに至っているようだ。
しかし、そこに考えを止めず、自然の生き物が仲間の誰かが死んでしまった時に、なぜ死について考えなければならないのか。と問い返すべきで、そうすれば、死を考えることが、自分自身が生き伸びるという生物にとっての大命題に、何の利益ももたらさないことくらいは気づくはずであった。そして、なぜ自他の死を考えない自然の動物は普通なら仲間を殺さないのに、自他の死を十分に考えられる人間だったはずの出来損ないが、それを平然とやってのけるのか。これこそ究明すべき人間性の謎だと気づくのではなかろうか。
この日彼が見たはずの生物心理学は、認識しない動物に対し、認識する人間があれば、その違いはどこにあってどのように生じるのか、つまりは、人間の特異性を究明する学問のはずだった。それにもかかわらず、「人間はなぜ死を認識するのか?動物との違いはどこにあるのか?」ではなく、「動物はなぜ死を認識しないのか?」などと質問を発するのは、的外れと言うしかない。彼が学生なら、おそらく落第は必至と思われる。
「ライオンがシマウマを食べる時、ライオンはシマウマに何か感じるでしょうか?」、なぜライオンではない人間が、このようなことが言えるだろうか。自分は人間として、他の人間との協力が無ければ有り得ない社会、当然ながら相手を突然襲ったりしない規律を持って保たれているその社会で、ぬくぬくと人間の姿で成長しておきながら、突然にサバンナでもない街中でライオンを気取ることに矛盾を感じないのは、たんなる社会に対する甘えであり、論理的崩壊すら自覚できない知能の欠落を示すに過ぎない。
捕食動物が自分が生きるために獲物を狩る時に何の感傷も持たないのと(感傷を持つ個体と感傷を持たない個体がいたとして、どちらが狩りがうまく生き延びる可能性が強いであろうか?)、人間である両親から生まれた人間であることすら忘れ、自分は社会的平和の中で成長したという事実も自覚せず、その社会で昨日の自分同様に平和に暮らす、同じ生物種に属し、社会を共にし、コミュニケーションすら取りあえる仲間を殺すのに、一体どのような共通性があるだろうか。
太田氏は、もしかしたら出来損ないの弱いおつむがひねり出した屁理屈を真に受け、無差別殺人の背景に自他の死に対する認識の欠落にあると感じ、それは人間以外の動物性への回帰ではないかといった疑念を持っているのかもしれない。確かに、自他の死の認識の欠落が無ければ、あのような身勝手なだけの振る舞いは出来ないが、それは動物性への回帰では有り得ない。当然食べ物ではない、自分に危害を加えない仲間を殺すような動物は、基本的に人間だけである以上、それは人間の特異性から生じていると考えるしかないのである。
人間以外の動物が死を認識しないのは必然で、不思議でも無ければ不気味でもない。不思議で不気味なのは、他の死を認識できるはずが殺人をする人間という動物だ。その原因が個人にあるにせよ、社会にもあるにせよ、それは完全無欠に人間性という化け物のなせる技であると認識すべきであろう。違和感を感じるなら、人の人らしい部分で、人の人らしい部分が明らかになるように、研究者たちには頑張ってもらいたいものだ。
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