文鳥ゲンの急死にかなりの衝撃を受けた飼い主は、こういう時は仕方がないので、1968年ザ・フォーク・クルセダーズの「悲しくてやりきれない」でも聞こうと思い立ち、早速ユーチューブを漁ったところ、オリジナルとオダギリジョーさんと桑田佳祐さんとおおたか静流さんと矢野顕子さんのバージョンなどを試聴することが出来た。中でも、オダギリジョーさんの歌を聴いたのは初めてだが、頭を使って真面目に唄い込んでいる感じがして一番聞きやすいように思う。
この歌の歌詞は、無頼派のサトウハチローの感傷的な詩なのだが、1番よりも夢はもつれわびしくゆれる2番がお気に入りだ。
白い雲は流れ流れて
今日も夢はもつれ、わびしくゆれる
悲しくて悲しくて、とてもやりきれない
この限りないむなしさの
救いはないだろうか
救いなど無い、が現実主義の個人的な結論なので、宗教に救いを求めたと見られては心外だが、実は数ヶ月前に『光明真言』を覚えていたので、ゲンを埋葬した後、それをムニャムニャと唱えていたのは事実である。
もちろん、他人が信仰するものは何であれ(他人に迷惑をかけていない限りは)尊重しても、自分には信仰心は無いので、文鳥用の日本的なお墓の前では日本的にお経を唱えた方が様になると思い、それらしく短いのを聞き覚えたに過ぎない(実に有難いことに音声付でお教えになっているお寺のサイトがある)。こういったことは形が大事で、合理的に見ればどうでも良いことにこだわれるからこそ意味がある。儀式や儀礼とはそうしたものだろう。
実は、呪文ならすでに一つ知っていた。適当に区切ると「ノウボウ・アキャシャギャラバヤ・オンアリキャ・マリボリソワカ」と言うものだ。これは高校生の時の英語の文法の講師だった先生が、東京外語大を出て高野山金剛峰寺で修行された密教のお坊さんで、級友S君の「頭の良くなるお経ってありますよね。オンアボ何とか言うの!」とか何とかといい加減な質問に対して、板書して口ずさみ教えてくれたものだ(この先生の外見は、頭をつるつるにそり上げ、顔は鼻が高く黒縁眼鏡でドイツの技術将校のようであった。それでスーツは三つ揃えをビシッと着てイングリッシュを教えているのだから、ずいぶんとけったいな御仁であったと言えよう)。
本当は虚空蔵求聞持法と呼ばれ、虚空蔵菩薩さんの真言(仏さんを称える現地【インド】の言葉。「考えるより感じろ!」と、耳に入ってくる音の響きに共鳴するタイプのお経で、意味がわからない日本の一般ピープルにとっては一種の呪文と言える)であり、弘法大師空海が百万回唱えたことで有名な記憶力を増進させるとされるお経だ。百万回など無理なので、一日七回声に出して唱えるといいですよ、と聞いたような気がする。もちろん、英語がことのほか不得意な私は、当時ノートの端に書いて七回声を大にして唱えたはずだが、効果はまるでなかった。
しかし、墓の前で記憶力を呼び出すというのはどうだろう。なかなか意味深長にも思えるのだが、やはり少し的外れだろう。そこで、真言つながりで光明真言にたどりついたわけだ(般若心経が一般的だと思うのだが、長いのでやめた)。こちらは大日如来さんの真言で、大日如来さんと言えば光を放つ世界の中心、キングオブ仏さんであり、一般ピープルとして俗っ気だけで簡単に言えば一番ご利益ありげではなのである。
ただ、世界の中心のお方に辺々から直にお願いするよりも、文鳥についてよりふさわしそうな、言うなれば担当の仏さんを通した方が良いかもしれない。と、さらに余計なことを考えはじめ、探してみると孔雀明王さんに行き当たった。この方、もともとマハーマユリーと言う女性神だったそうで、マハーマユリーとは偉大なる孔雀の意、つまりはクジャクが神格化した存在らしい。クジャクはオスは姿も美しいが、実用的にも害をなすヘビを食べるとして、現地で人気があり、尊ばれたものらしい(『孔雀王』という昔の奇妙なマンガについては覚えていないので触れない)。
クジャクは当然鳥類だ。ヘビは食べるかもしれないが、おそらく小鳥を食べることはないだろう。過去に何度かヘビの侵入を許した我が家では、クジャクさんは大歓迎なので、この仏さんを守護神と勝手に決めてしまうことにした。何しろ仏さんの慈悲心は広大無辺なので、このような凡愚な衆生の身勝手も、(他人に迷惑をかけるわけでもないので)笑って許してくれなければならないのだ。有り難いではないか。
孔雀明王さんは「オンマユラキランディソワカ」、真言もシンプルでよろしい。そして、つい先日、数百円の孔雀明王さんプラスチックフィギュアを取寄せることにして、どうやら明日にも届きそうなのだから、めぐり合わせと言うのは恐ろしい。ようするに、そのちっちゃな仏像にゲンの冥福を祈っていろと言うことか、ではせいぜい数日は心しよう。
※ なお、こういった密教系の話をペラペラ話すと、みだりに法を説くことを禁じる越法(おっぽう)ではないかと心配する真面目な人もいるようだが、たぶんそれは誤解だろう。
私のような一般ピープルなんぞが、真言でも陀羅尼でも、もしくはどこで知識を仕入れたのか、印まで結んでそれを唱えようと(そこまでしたければお寺で少し修行すれば良いものを、と私は思う)、そんなものは真似事のおままごとなので、意味など持つはずがない。何となくやっている当人だけが、形になっていると満足しているだけで、目くじらを立てるほうがよほどおかしい。
越法などと言うのは、おそらくは仏教修行の妨げとなるよう虚言を戒めたもののはずで、求道の埒外にある一般ピープルなど初めから最後までどうでも良いはずなのである。そもそも密教系の仏教は、修行者と一般ピープルを高い壁で隔てなければ成り立たないのである(修行者自身の解脱を目指す)。解脱に至ろうとする修行者を導くには、それなりの知識や資格が必要で、それがないのに判ったようなことを言って修行の邪魔をする坊主がいたら、他の修行者を惑わせる「悪魔」に他ならない、と言うことだろう。玄人さんの仲間内での話なのだ。
従って、私の高校時代の恩師のような出家者が、雑多な一般ピープルに真言を教えるのは、宗門としては教化のためであり、修行者としては教えを求める者への功徳に他なるまい。有り難いことである。ナムナム。
【追記9/10】
先ほどミニチュア孔雀明王像が届きました。8cmほどの物ですが、思っていたよりも精巧なつくりで驚きました。元の像は仏師の向吉悠睦さんの作品ですが、それをミニチュア化する技術に感心しました。
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