なぜ非手乗りも門外不出か

禿げた文鳥とその夫
禿げのミナと隻眼のクラ

また、嫁文鳥を迎えねばならない状況にあって、最近いろいろ考えている。一体なぜ門外不出にするのか、である。
こういった感覚の人は多いのか少ないのかわからないが、なぜか一度我が家の文鳥社会に迎えた文鳥は手放す気にならない。しかし、隔離飼育期間に性別違いが判明すれば、ほぼ感慨も無くお店に返しているのにだ。確かに、我が家で生まれ育った文鳥を「ウチの子」と呼び、お店で購入した文鳥を「ヨソの子」と呼ぶが、特に差別もしていない。手に乗るカナなど「ウチの子」よりかわいいくらいだが、非手乗りであり続ける文鳥も手放す気になどまるでならない。
結局のところ、所有意識なのか、仲間意識なのか、帰属意識と言うべきなのか、とにかく「文鳥団地」で生活させ放鳥時間に一緒に遊ばせた瞬間に、それが決定的なものになるらしい。逆に言えば、我が家の文鳥の遺伝子を受け継ぎ、私自らが餌づけして育てた文鳥であっても、おそらく一緒に遊ばせない限りは、それほど苦にならずに他人に引き渡せるものと思われる。初めから割り切るわけだ。
とするなら、「文鳥団地」の世界には入れずに手乗りとして飼育し、性別がわかったら後継ぎのみを我が家の文鳥社会に入れ、他は望む人に譲ったらどうだろう、と少し考えたのだが、これは許されない。物心ついた時からおとな文鳥たちにもまれて育たずに、我が家の後継者などと言えるはずがないのだ。
・・・割り切れることと割り切れないことがあるのが、難しいところだ。

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